ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「なぜ日本で私小説がしぶとく生きつづけるかわかる?」
「文藝春秋・2004年9月号」の塩野七生さんのコラム「日本人へ・十六〜プロとアマのちがいについて」より。
(音楽の分野で「絶対音感」という音に対する絶対的な感覚が重要ならば、その他の分野でも、そのような絶対感覚がモノを言うのではないか、という前置きのあとで)
【そのようなことを考えていた時期に、ジョルジュ・アルマーニと話す機会があった。私はこのイタリアのデザイナーが、われわれならばグレイで一括してしまうところを、種々様々な多くのグレイに色分けしたのにはまず感心した。グレイにもこんなに多くの色があるとは知らなかったからである。だがもっと感心したのは、色分けしたグレイを、これとこれ、あれにはあれ、という具合に合わせて見せてくれたときだった。この人には絶対色彩感覚がある、と思ったのだ。
ならば、私の棲む出版の世界ではどうだろう。処女作当時の担当編集者が、こう言ったのが忘れられない。
「なぜ日本で私小説がしぶとく生きつづけるかわかる?縁側に立って庭の梅の樹を眺めている著者の心境なんて、ほんとうのところは彼以外の人にはわからないことなんだ。それなのに、関係ないはずの他人までが読む。しかも読んだ後で、他人事ではないのだと思うようになる。文章が上手いからなんだ。そして日本では今だに、文章の巧者は私小説の作家に多い」
しかし、私は私小説を書いているのではなかった。その私に彼が教えようとしたのは、私的な心情を表現するのに適した文章があるならば、戦争や政治を叙述するのにもそれに適した文章があるはずだ、だからそれを見つけ、文学的でないと批判されようともかまわずにそれで書け、ということであった。つまり、出版の世界での勝負を決めるのは文章に対する感覚の冴えであり、言い換えれば、書く対象に適した文体をモノにできるか否かにかかっている、ということだろう。】
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塩野さんは、1937年生まれで、1969年に「ルネサンスの女たち」でデビューされています。ですから、この担当編集者の言葉は、いまから35年前くらいに塩野さんに向けられたもの、ということになりますね。
僕はこの文章を読んでいて、故黒澤明監督のあるエピソードを思い出しました。
黒澤監督は、映画のあまり重要ではなさそうな1シーンを「これではダメだ」と何度も何度も撮り直しをさせることがあったそうです。そして、ようやく監督がOKを出した映像を「ダメ」と言われたものを比べてみても、周りの人たちは「どこが変わったのか全然わからない」ということがときどきみられたのだとか。
たぶん、黒澤監督にも「絶対映画感」みたいなものがあって、それは常人には判別できないけれど、確かに映画の完成度に影響を与えるものだったのでしょう。
現代は35年前よりは小説のジャンルは広がりをみせているのではないかな、とは思うのですが、「他人にインパクトを与える文章」というのが、必ずしも「文学的」であることばかりにこだわりすぎしまっている、虚飾だらけのものではない、という点においては、今も昔も変わらないような気がします。
僕もこの年になってようやく少しわかってきたのですが、大人にとって「心を動かされる文章」というのは、「自分の記憶のなかから『共通体験』あるいは『共感』を引き出せるものなのではないでしょうか。
恋愛小説を読んだり、映画を観て「共感」できるのは、おそらく、その内容が自分の実生活・あるいは想像の世界における「経験」とシンクロするからです。
例えば、自分の大事な人を失った実体験のない小学生は、そういう「喪失体験」について書かれた小説を受け止めにくいように。
年をとると涙もろくなったり、感情の抑制が効きにくくなるのは、そういう「感応する実体験」が増えているからかもしれません。
僕は、こうして文章を書くときに、つい「巧い!」と他人に褒められるような凝った文章を書きたいと意識してしまいます。でも、実際には凝った比喩や長ったらしい言い回しに感心しているのは本人だけ、という状況は珍しいものではありません。
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08月11日(水)
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