ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■ある無名のデザイナーと、彼が描いた「おっさん」の伝説
ゲームを作り込んでいる最中の宮本は、しばしば、社内の総務関連の部署などからゲームをやらない人を連れてきて、コントローラーを握らせる。宮本はそのプレイの動きを何も言わず後ろから見つめ、「あそこが難しいなぁ」とか「あの仕掛けに気づいてもらえなかった。わかりやすく変える必要があるな」などと、改善点を次々と浮き彫りにするのだ。宮本は言う。
「いつも、これからゲームに引き込もう、という人を相手に作っているので、今、ゲームに熱中している人の意見は当てにならないところがあ」
「世界の宮本」は、任天堂がゲーム人口拡大戦略を始めるずっと前から、ゲームに関係のない人の声を拾っていた。どれだけ世界中で評価されようが、実績を作ろうが、決して独りよがりにはならず、「普通の人」がわからないのは自分が間違っているからだと、修正をしてきた。
その武器が、「肩越しの視線」なのだ。
生活の中に新しい遊びや楽しみを見出す、遊びへの探究心と鋭い嗅覚が、非凡なアイデアを生む。そして、見つけた遊びの種を、万人に理解してもらうために、愚直に遊びを磨き込む。
その過程は、実に禁欲的なものである。】
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僕が中学生の頃(25年前くらい)は、ファミコン全盛期でしたから、周りは「ゲームデザイナーになりたい!」という同級生がたくさんいたように記憶しています。いわゆる「インドア系」にとって、「ゲームクリエイター」は、憧れの職業だったんですよね。
日本を、いや世界を代表するゲームクリエイター、宮本茂。
僕はこの『任天堂 “驚き”を生む方程式』を読んで、「ゲームクリエイター・宮本茂ができるまで」の詳細を知ったのですが、宮本さんは、「ゲームを作るために任天堂に入った」わけではなく、文字通りの「(「ゲームデザイナー」じゃない)デザイナー」として入社されたんですね。
考えてみれば、1952年生まれの宮本さんが学生生活を送り、就職した時代には、「ゲームデザイナー」なんて職業そのものがなかったんだよなあ。
宮本さんがゲームをつくるようになったきっかけというのが、「アメリカで売れなかったゲーム機の在庫を捌くための穴埋め仕事」で、それも、当初予定していた『ポパイ』が、キャラクターの版権で使えなくなったから、というのは本当に不思議なめぐり合わせです。
『ポパイ』がOKだったなら、「マリオ」はこの世に生まれていなかったのかもしれないのです。元は「おっさん」と呼ばれていたそうですから、周囲の期待も推して知るべし。
ところが、この『ドンキーコング』の大ヒットで、「世界のミヤモト」への道が開かれました。任天堂に就職した頃の宮本さんは、自分が30年後にこんな「カリスマ」になっているなんて、想像もつかなかったのではないかなあ。
しかし、これだけたくさんの「本職のゲームデザイナー」が生まれているにもかかわらず、そんなつもりで任天堂に入ったわけじゃない宮本さんが、まさに世界のトップランナーとして君臨しつづけているというのは、すごい話であるのと同時に、「みんなに楽しんでもらうためのゲームを作ることの難しさ」みたいなものを感じずにはいられません。
岩田社長の「肩越しの視線」の話はとても印象的なのですが、考えてみると、こういう「普段ゲームをやらない人にやらせてみる」ということそのものは、多くのゲームクリエイターやメーカーもやってきているのではないかと思うのです。
おそらく、彼らと宮本さんの最大の違いは、「彼らの意見を、いかに真摯に受け止めて、フィードバックしていくか」なのでしょうね。
これだけ有名になり、世界的にも評価されていれば、「このゲームの面白さがわからないのは、プレイヤーにセンスがないからだ」「ゲーム好きならわかってくれる」という方向に流れていくのが、むしろ当たり前のような気がします。
あるいは、「他人の意見に流されすぎて、軸がぶれてしまう」か。
そうならないのは、宮本さんが「もともとは、テレビゲームを作ることが目的ではなかった人」だったから、なのかもしれませんね。
06月21日(日)
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