ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■「キティ事件」と「秋葉原無差別殺傷事件」
この38人の人々も、もしその悲鳴を聞いたのがもっと人の気配が少ない場所だったら、「自分がなんとかしなければ」と考えた可能性もあるはずです。そして、この事件のあと、「悲鳴を聞いたのに助けなかった人々」は、おそらく、ものすごく悩み、後悔したのではないかと思うんですよね。「なんであのとき、助けに行かなかったのだろう……」って。彼らだって、「偶然その場に居合わせた人々」にすぎないのに。
先日の秋葉原の事件で、多くの人が現場に立ちすくみ、被害者の救護をしないばかりか写真まで撮っていた、という話を聞いて、僕は「世も末だなあ……」「現代人は冷たいなあ……」などと考えていたのですが、この「キティ事件」は1964年の話ですから、半世紀前から、人間というのは「そういうもの」だったのです。
「被害者を助けようとして犯人に襲われた」方もおられましたし、「被害者のなかにB型肝炎ウイルスに罹患されていた方がいたので、救護にあたられた人は、感染チェックのために申し出てください」というアナウンスもされました。
「人助け」は、当事者にとっては、けっしてメリットばかりではないのです。それが積極的に行われるようになるためには、ここに書かれているように「人を助ける、人に自分から協力するという行為を、みんなが尊い、素晴らしいと思う風土、雰囲気をつくる」ということが非常に大事なのではないでしょうか。
「人助けをするヤツなんて、バカだ」というような共通認識が広がっている社会では、そんな、もともとデメリットのほうが多い行為を進んでやる人は絶滅してしまうでしょう。
なんとなく、すぐにでもできそうなことなのですが、「人を助ける、援助する」というのは、とても勇気が要る行動ですし、よっぽど日頃からトレーニングしておかないと、いざというときにいきなり実行できるものではないんですよね。
だって、「電車でお年寄りに席を譲る」という「小さな親切」ですら、日常のなかでいざやろうとすると、なかなか「どうぞ」という言葉が出ない。慣れている人は、ごく自然にやっていることなのに。
そして、日常生活において電車で席すら譲れない人間が、緊迫した事件現場で、急に「人を助ける」ことは至難のわざのはず。
むしろ、あの状況下で、被害者を助けようとした人が、かなりの数存在していたということのほうが、「驚くべきこと」なのかもしれません。「人間として当たり前」なんて傍観者たちは言うけれど、ああいうのって、「日頃から意識していなければなかなかできない」はずだから。
06月21日(土)
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