ID:60769
活字中毒R。
by じっぽ
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■すなわち、私はモンゴルという土地に完敗を喫したのだ。
 そもそも私たちは、今いる社会のなかでしか生きられない。およそ10日間のタイガでの生活を通じ、私が思い知らされたのは、モンゴル人との絶望的な生活力の差だった。人間としての生存力の違い、と言ってもいい。モンゴル人になりたい、などという、日本で抱いていたふやけた願望は、木っ端微塵に砕け散った。そんな考えを持っていたこと自体が恥ずかしかった。
 お世話になったツァータンの家族とお別れして、タイガを旅立つ朝、正直に言って、別れの悲しさより、これから自分の場所に帰ることへのうれしさのほうが強かった。空も山も森も、タイガという土地の美しさにはとてつもないものがあったが、やはり日本に帰れるという安堵感が勝った。
 すなわち、私はモンゴルという土地に完敗を喫したのだ。】

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 『鴨川ホルモー』『鹿男あをによし』とヒット作連発で、いまもっとも注目されている若手作家のひとり、万城目学さんが大学4回生のときに体験した「モンゴルでの体験」。

 テレビのドキュメンタリーなどで、「モンゴルの大自然のなか生きる人々」の姿を目にすると、蛇が怖くて山歩きをするのも苦手な僕でさえ、「ああいうところで、ゆったりと暮らしてみたいものだなあ」なんて夢想してしまいます。
 ところが、それを「実現」してみた、この万城目さんの体験談を読んでみると、「自給自足の生活では、『晴耕雨読』なんてノンキなことは言ってられない」みたいなんですよね。
 ここに描かれている「ツァータンの日常生活」というのは、まさに「メシを食べて生きていくための労働の繰り返し」。
 考えようによっては、現代の日本人だって、「メシを食べるため(のお金を稼ぐため)」に毎日働いているわけですが、「余暇」とか「休日」は、電気のおかげで夜も活動できることも含めて、現代の日本人のほうが、はるかにたくさんありそうです。

 このツァータンの生活には、「現代人」たちが失ってしまったある種の「生き抜くことだけに集中していればいい、という充実感」がありそうな気がしますけど、少なくとも現在の「文化的な生活」に慣れきってしまった僕には、とうてい耐えられないと思います。
 「こんな、生存し続けるためだけに生きているような生活に、何の意味があるの?」とか、考えてしまいそう。
 しかしながら、彼らからすれば、「生きるのに必要な行為」以外に、そんなに価値があるのか?という感じなのかもしれません。

 「現代社会」に対して、「どうしてこんな世の中にしたんだよ……」と先人たちに文句のひとつも言いたい気分になることってありますよね。
 でも、この話を読んでみると、現代の「文明社会」は、確かに、「子孫たちが『生存するための労働』に費やす時間を減らして、自由な時間をつくってやりたい」というご先祖たちの努力の賜物であるように感じられるのです。

04月15日(火)
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