ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5587,幸福の条件とは 〜①
<「幸福の条件〜新道徳論」鹿島茂著>
* 「恒産なければ恒心なし」
10年前までは、『幸福』という言葉は何故か、何処の場の会話、対話で
軽過ぎる言葉として避けられていた。ところが、長期の不景気などで、社会が
混沌としてきたためか、テーマとして扱われるようになってきた。
幸福の条件とは、まず生活に支障のない最低限の収入がなければならない。
「貧すれば鈍す」「金持ち、喧嘩せず」「恒産なければ恒心なし」で、人は、
裏づけある豊かさがあってこそ幸せになれる。いかなる場合も、万一の備えが
「先立つもの」があればこそ。蓄えが無ければ、いざという時、何も出来ない。
花街の色男も、前提が金持ち。 〜ここで、まず、それを指摘する〜
≪ アダム・スミスは『道徳感情論』の中でこんなことを述べています。
「健康で、負債がなく、良心にやましいところのない人に対して何をつけ
加えることができようか。この境遇にある人に対しては、財産のそれ以上の
増加はすべて余分なものだというべきだろう」。 たしかに、その通りで、
人間は、健康で、負債がなく、良心にやましいところがなかったら、それで
充分なはずです。収入のさらなる増加は、増加した分に見合った幸せを
正比例的にもたらすというようなことは決してないのです。
たとえば、健康で、負債がなく、良心にやましいところのない年収五百万円の
Aさんという人がいたとしましょう。このAさんと比べて同じ条件の年収五千万の
Bさんが10倍幸せかといえば、そんなことはないのです。幸せ度を測定する機械
があったとしたら、せいぜいのところ1・2倍くらいの数値を残すにちがいない。
物質的な豊かさのもたらす幸せが正比例的になるなどということは原理的にあり
えないのです。しかしながら、こうしたことが幸福の必要条件であるとしても、
それはあくまで一定以上の収入があった場合に限られます。
生活を維持するのに欠かせない最低限の収入がなければ、人は幸福と感じる
ことができないのです。「恒産なければ恒心なし」です。
ところで、一昔前の日本人のアンケートに対する回答を見ますと、
「自分は中流である」と考える人の割合が90%近くに達していました。
これは、自分は健康で、負債がなく、良心にやましいところがないばかりか、
一定以上の収入があると考える「恒産あるゆえに恒心あり」の人が90%近く
いたことを意味しています。つまり、日本はかなりの程度まで理想的な社会に
近づいていたのです。
それなのに、いまはどうでしょう。「健康で、負債がなく、良心にやましい
ところのない」のにもかかわらず、幸せを実感することのできない人々が、
社会の両方の端でどんどん増えてきているのです。片方は、当然、一定以上の
収入を持たない「恒産なし」の人、つまり、ワーキング・プアの人々の増加です。
これらの人々は、最初のうちこそ、健康で、負債がなく、良心にやましいところ
のない状態でいられても、収入が次第に減じていけば、そのうち負債が生まれ、
健康でなくなり、ついには良心に疚しいことまでするようになるかもしれません。
これは、大きな社会問題です。しかし、二十一世紀の社会にとってより解決困難
なのは、もう一方の端、つまり富裕層における不幸せな人々の増加です。≫
▼ 確かに、500万と5000万の収入で、10倍の幸せは得られないが、10倍で
ないとしても、散在の行蔵は、その中に、何かを残してくれる。より稼ぎ、
より使ってこそ、お金(能力)である側面を持っている。小・中・高・大学と
進学するにつれ、幸せそうな人が格段に増えていく。両親の質?で、その前提が、
ある程度、決定される不条理がある。結婚相手も、つり合いで選ぶケースが多い。
結婚も、「悪貨が良貨を駆逐する」。いや、結婚そのものが、そういうものか。
・・・・・・
5222,閑話小題 〜中学校の古希会 〜②
2015年07月02日(木)
* 中学校・古希での見聞とは
卒業から古希の会まで半世紀以上、それ以来、初めて出会った人が何人かいた。
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07月02日(土)
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