ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5452,「楽しむ」を楽しんで哲学する
      【アリストテレスの人生相談ー小林正弥著】の、
      ー幸福原理「美徳に基づく魂の活動」ーより
   * 「楽しむ」を哲学する
 母親からは、『仕事も、習い事も、それが楽しみになるまで努力すること!』
父親からは、『お金は事業と仕事を楽しんだカス。カスを稼ぐため努力する
のではなく、楽しめるまで苦労し熱中すること』と、聞いて育ってきた。
その背景には、仕事も、習い事も、膨大な努力があってこそ。それを続ける
には、楽しみまで引き上げればよい。古美術商時の上客から伝授して貰って
いたのだろう? 同じことを2千数百年前の哲学者がいっていた。

これは、アリストテレスによる洞察である。何をするにせよ、本物の上達は、
そこにどれだけの楽しみを得られるかによって図ることができるのだ、と。
【アリストテレスの人生相談ー小林正弥著】の、幸福原理「美徳に基づく
魂の活動」から考えて、楽しむとは、美徳を実現させるため、の前提がいる。
ただ楽しければよいだけでは薄っぺら過ぎる。 〜その辺りから〜
≪ 言葉だけを見ると、誰にも存在する美徳を実現することが幸福をもたらす
 と見えるかもしれませんが、実際は、音楽の卓越した素質を持たない人は、
いくら努力をしてもプロの音楽家になるのは困難。アリストテレスは、個々人
に、その人の固有の素質が本性として備わっていると考えているのです。
ですから、この原理における「美徳」は、あくまでもその人の魂に内在する
卓越した素質のこと。つまり、これは「幸福を、その人の魂に内在する優れた
素質に基づく魂の活動」ということなのです。アリストテレスは、
「馬の愛好者にとっては馬が快いように、美徳を愛する人たちにとっては
美徳に基づく行為は本性的に快いものである」とします。ここで重要なのは、
彼は幸福を快楽とする考え方は否定しましたが、「美徳に基づく魂の活動と
しての幸福は、それ自体として快適である」としていることです。たとえば
賭博を快楽とする人がいても、それは真実の幸福ではありません。それは、
美徳に基づ魂の活動ではないから、これに対し、たとえば理性的な思考活動は、
美徳に基づく魂の活動なので、快いものです。 再び音楽家を例として考えて
みれば、その人の魂に内在する卓越した音楽的素質が開花し発揮されれば、
その人は優れた音楽を作曲したり演奏したりすることができるから、その人は
音楽の喜びを味わうことができる。その人にとって、それは本性的に快いもの。
逆に、音楽的素質のない人が無理に音楽を長時間習わされても、それは苦痛で
しかありません。このようにアリストテレスは、「本来の善なる活動としての
幸福は、魂に内在する卓越した素質に基づくがゆえに、その人にとっては
不愉快で面倒なものではなく、本性的に快いものだ」と考えました。
しかも彼は、それは美しく、善き行為であると考えます。アテレーは一般的
には「徳」と訳されていますが、美しいものでもあるので、私はそれを「美」
と訳しています。≫
▼ 「幸福の状態」を、「楽しみ」に重ねてみた解釈だが、最も濃いのを
 至高体験、薄めなのが「楽しみ」と、普通は「何となく幸せ」という実感。
オリンピックの選手が、『勝負を楽しみたい』とは、極限状態の現場で本性的
から出てくる実感の言葉だからこそ価値がある。それも勝ったか負けたかでも
意味合いが違ってくる。 濃い目の「楽しむ」とは、美徳に基ずく魂の活動
なればこそ、その味が濃くなろうというもの。まあ、美徳でなくとも、大自然
との邂逅でも、至高体験は可能・・ で、三桁の至高体験と、濃い目も
「楽しみ」が沈殿した池、いや風呂が心の底にあって、何時でも入浴可能。
で、落ちがつく。それが慢性したのがボケ状態の天国? 傍は、地獄に化す。
 で、以下が、ちょうど良い塩梅につづく。
・・・・・・
4723,哲学はなぜ必要か?
2014年02月18日(火)
  * なぜ人生に、哲学が必要なのか?(今更だが、あえて!)   
         もう少し おまえσ(=゚ω゚=;)考えろよ ったく!

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02月18日(木)
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