ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5411,新年に 〜情報と知識の違いについて
〜『残酷人生論』池田昌子著
* 情報と知識の違いについて
以下の文章は、哲学者の故池田晶子が20年前、Windows95が
世に出てきた頃に書かれた文章である。その後の激変したネット情報化社会
の現在でも、そのまま通用する内容。 高度をコードと捻っているところが
面白い。知識とは違った有効な生情報も、情報社会に生きるものにとって
重要な要素である。情報と知識の違いを簡潔に説いている。〜その辺りから〜
≪ 前に、情報は「しょせん」情報だと言いました。高度情報化時代なんて
のは、要するにコード情報化時代、コードを引っこ抜いちゃえば、タダの箱。
タダの箱を前にして、人はやっぱりタダの人だと。とはいえ、そのタダの人が、
タダの人のままに広くコミュニケーション可能になるということは、やはり
画期的なことで、オンライン・ショッピングなんぞには私はもとから興味が
ないが、この点に関してならば、さしものコード情報化時代にも希望の光は
射している、と思える。
ヒラ社員がわからず屋の部長の頭越しに、いきなり社長と交渉できるとか、
無名の新人が、阿呆な編集者をパスして、堂々作品を発表できるとか、地位と
肩書なきゆえに虐げられてきたタダの人々に、その実力を発揮できる機会が
平等に開かれるということは、文句なく素晴らしいことだ。これはほんとに
よいことだ。 それがほんとに可能になれば。
普通に人は、とくに日本は、地位と肩書が偉ければ偉いと思っているが、
情報優先のネットの上では、そんなの何の意味もない。すると、旧態依然の
権力機構は、やがて軒並み崩壊するだろう。年功序列、性差別、情実、根回し、
御挨拶、地位と肩書ゆえに威張っていた無能な人々が、地位も肩書もないが
しかし有能な人々に、おいおとされてゆくことになるのだ、なんて愉快!
これは革命!
ところで、地位も肩書もないが有能な人というのは、タダの人であっても、
やはりタダの人ではない。したがって、情報ネットによって実現する平等社会
とは、裏を返せば、これまで以上に実力本位の競争社会である。
実力がなければ、たとえネットの上であれ、やっぱり何の意味もない。
競争の現場がネットの上に移り、余分な障害物が減っただけのことであって、
何のための競争か、ということを考えずに競争している人間社会の在り方と
しては、以前と何ひとつ変わっていない。
それだから私は、やはりこう感じざるを得ないのだ。
情報化時代 それが、どうした__と。
人がまず理解していないのは、情報は知識ではないということだ。
情報は外から受け取ることによって流通する。しかし知識は、或るAがなぜ
Aなのか、と立ち止まり考えることによってのみ知られ得る。情報は流通するが、
知識は決して流通しない。流通する知識は知識ではない。すでに情報だ。
なぜなら、考えて知る、とは、自ら考えて知ることしか意味しないからである。
したがって、そこに在る同じAであっても、情報と知識とでは、知られる仕方が
正反対を向いているわけで、その差がまさしく、無知と知との差だ。
さて、人は多くの情報を知ることによって、いったい「何を」知っていること
になるのか。我々は「何のために」競争しているのか、それを知っているのか、
どうか。 私は思うのだが、今後しばらく押し寄せてくる情報ネット化の大波は、
折にふれ人類を訪(おとな)う大掃除としてのあの大洪水のようなものと。
洪水の引いたあと残っているのは当然、地上に広く流通していたあれこれの
情報群ではなく、もとより流通することのあり得ない、星のように高く光る
あれら普遍的な知識だけであるはずだ。(一九九六年四月号)≫
▼ この随想日記も、押寄せる情報群の中から、選んだエキスをパックにし、
知識化する有効な手段になっている。一度、パックすれば、毎年の同月同日
に読み返し知識の再認識が可能になる。それにしても、絶対的知識量の不足に
今さら驚いているが、それを自覚出来ているだけ、少しは、まし?
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01月07日(木)
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