ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5265,本能こそ命の力だ 〜ニーチェ「超」入門〜
〜ニーチェ「超」入門〜白取春彦著
* 本能こそ命の力だ 〜本能こそ人間の最大の理性
学生時代に、「理性とは、本能を抑えることでなく、逆に活かし、
コントロールすることだ」という言葉に驚いたことがある。
「本能こそ命の力だ」こそ、ニーチェの一番言いたかったことだろう。
「良く遊び、良く学び、良く働く」を、本能に従ってなせ、ということ。
〜その辺りから抜粋(p120)
≪ 本能は動物的なものであり、人間的なものから遠いという。
・本能は理性よりもはるかに下にあるものだという。
高度な文化生活にそぐわないものだという。
本能のままに生きるのはよくないものだという。
本能をおとしめたのはキリスト教ではなく、キリスト教の神学だ。
かたよりのない哲学的思考に未熟であった神学者たちは、
欲望のままに生きることと本能の働きを取り違えてきた。
・欲望こそ、本能とはまったく関係のないものだ。
欲望とは、自分の嗜好に合わせて選んだうえで手に入れようとすることだ。
本能は、欲望せずに、欲求する。欲求は生命維持のために働く力だ。
だから、喉が渇いてたまらない場合、欲望はどうしても炭酸飲料を飲みたい
と強く求める。あくまで好みで選択するのだ。
・その一方で、本能の働きである欲求は、とにかく水分なら何でもかまわない
と求める。泥水でも、小便でもいいから、喉をうるおしたいと求めるのだ。
本能は純粋なのだ。命をつなぐためにのみ人を根底から動かしているものだ。
二ーチェはこのことをよく知っていて、本能こそ人間の最大の理性だとした。
その表現だけでは一種の反語に聞こえるが、真実そのままの表現なのだ。
・セックスもまた本能が要求するものだ。
キリスト教神学では、性交は子供をさずかるためのものだから快感を求める
べきではない、とした。しかし、快感の喜びがあるからこそ、射精と受精が
可能になるのだ。そしてまた、そういう行為を愛し合うことだと名づけるのは
ごまかしではない。本能も含めて全身で愛し合うからこそ、人間は生命を
維持し、今までつないでこられたのだ。それが本来の人間的な喜びでなくて
何であろう。
・人が反射的に危険や死を避けるのも本能の働きだ。ふと身をかわしたり、
頭を守ったりする。それは知や理性によって習得されたものではない。
本能が働いたための重要な動作だ。道徳というものが導く価値判断においても
そうだ。道徳の価値判断が隠し持っているのは、こっちの選択や行為のほうが
人間社会にとって有利という功利性だ。そこに、理由や根拠がある。・・(略)
・実は、現代人を苦しめているものの多くは知や理性というものの無駄な働き。
頭を働かせるほどに悩みは深くなる。想像、予想、記憶が私たちを苦しめる。
これこれすればどうなる、あれをしたからこうなった。どうやれば上手くいくか。
これから何をすべきか。こういった頭の働きがわたしたちの悩みをいくらでも
発芽させているのだ。それよりも、もっと素直に、本能を尊重して今を生きる
べきではないのか。苦しみも楽しみもすべて受けとめて満足しているのが、
本来の生き方ではないだろうか。それはかつての英雄とか支配者の堂々とした
生き方だったのだ。・・ ≫
▼ 情報化社会は、本能の働きを強くも、弱くもする。情報の「情」の働きが、
薄くなり、それが本能を弱めている。かって人間の本能を、本能を空を飛びかう
蛇として「龍」を想像上つくり上げた。土着の蛇が天空を飛びかう力を内なる
本能として、イメージとしてつくりあげた。それが、世界中の行き来のない
ところで、独立して自然発生的に作られたところが、不思議といえば不思議。
私の、一匹の蚊の中に、40億年の生命の歴史が入っている。
それを引継いでいるのが、本能なら、「本能こそ命の力」は当然のこと。
それを中庸し、コントロールするのが欧米ではアッラー、東洋では「世間様」。
・・・・・・
4900,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー47
2014年08月14日(木)
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