ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5219,閑話小題 〜中学校の古希会
   * 中学校の古希の会
 一昨日、湯沢のニューオータニで長岡市立東中学校の『古希の会』に参加。
一次会が17時から19時半、二次会が、その直後から別会場で開かれた。
9割が、そのまま移動。 参加総勢が61名で、女性34名、男性27名の割り。
同期360名のうちの二割弱になるが、年齢からみて多い参加者である。
男は大よそ4分1が亡くなっている。 私のクラスは、52名中、10人出席。
男6名、女4名。市内在住の男は、私1人の参加。県外が4人になる。 
死亡は、男27名中7人、女性は2人。 喜寿は、恐らく今回の半分だろう。
連れ合いの看護や、当人自身の問題で欠席が多々あるという。 卒業以来、
初めて会う人が同クラスで二人で、教師と、自衛隊を勤め上げていた。
様々の人生模様があるが、出席者は比較的恵まれた人たちだろう。大病で、
ゲッソリした人が何人かいた。 自衛隊、教師、病院の薬剤師、日立、小松、
など仕事はさまざま。古希となると、元肩書きなどの意識が消えているので、
昔の時代に立ち戻りやすいようだ。多く人が「古希の実感ゼロ」という。
 司会を自から申し出たが、思いのほか緊張してしまったのに驚いた。
直前に500mlの缶ビールを飲んだこともある。その上に、一線から引いて、
何かが緩んでしまったということか。17時から19時半まで一次会。
その後、近くのスナック風の宴会場で二次会が開かれた。私は20時53分
の新幹線で帰ってきた。これだけの同期の人が集まるのは、これが最後。
喜寿は、この半分〜三分の二だろう。 翌日の二日酔いは全くなかった。
後は急勾配の坂、70歳代が控えている。特に、男にとって厳しい。
 そこで、「あと10年は生きるつもりだったが・・マサカ」の坂が?
私なら「あと5年は・・ マサカ!」になる。プラマイ3歳だから、
二年半を無事なら想定内、先は短い! とにかく古希の関所を超えた!
・・・・・・
4854,「事業人生を決心して45年」の語り直し ー24
2014年06月29日(日)
   * 転進の決断と、次への構想
 そこで、新潟駅前の更地と、現在のアクロスプラザ近くの角地の更地を
有効に生かすことが急務と考えた。その角地は兄名義、新潟駅前は私名義。
背に腹は変えられないと、考えに考えた結論が、兄名義の更地を売却し、
新潟駅前に、ビジネスホテルにした遊休資産の活用である。その一角に
当時の稼ぎ頭の学生服を入れる構想。結論からいうと、鉛筆ビルの衣料
量販店の建替えは、時代の要請ではなかったことに逸早く気づいていた。
 但し転用可能のビルでもある。兄は、当初に打ち上げたファッション衣料
チェーン化に集中すべきと主張!私と意見が分かれた。
「もし、やりたいなら、出ていってやれ!」と。そこで思い出したのが、
ここに戻った時点で、「実兄との問題もあり、5年間が目安!」と公言して
いたこと。「身の引き時!30歳代前半からみて、ここで決断をしないと、
姉夫婦と同じトラブルを、実兄とすることになる。同じエネルギーなら、
新規事業に集中する方が遥かに有利」と、直感が働いていた。あのままでは、
間違いなく相打ちになった。2〜3ヶ月に一度の名古屋、岐阜、大阪、岡山
などの仕入れで、各地のビジネスホテルに泊まっていた。その仕入れ後に、
同行した同僚との現地の料理屋での一杯が楽しみになっていたが、食事代は
限られている。そこで、安いホテルを探し、その差額を加えるしかない。
その出張が宿泊客のニーズを知る立場になっていた。 産地の岐阜駅周辺
にも、客室主体のビジネスホテルがあって、そこを定宿にしていた。
立地は二等地だが、ユニットバスのある格安ホテルである。さらに現在は
無くなったが、倉敷に大学校庭をイメージした、レンガをモチーフにした
スケェアガーデンホテルがあった。そのイメージをレンガ外装に、客室主体に
したホテルと、学生服ショップを併設させれば、間違いなく大当たりする!と。
で、何度か実兄と衝突をするうち、半年後を期限にと、思い切った次の創業

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06月29日(月)
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