ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5205,個々にとっての人生は、永遠である!
『人はなぜ、同じ過ちを繰り返すのか』堤未果:佐治晴夫対談
* 自分は自然の一部分である
<生まれる前の記憶がなく、一人称(自分)の死をみることが出来なければ、
その人にとっての人生は最初も、最後もない「永遠」ということかも知れない>
といいうことは、各自の人生は、永遠の時空の中の一点の光ということになる。
それからして、「自分とは、自然の中の一部分」が、論理的に納得される。
≪ 佐治: メリカのネイティブの考えている神はキリスト教徒とは違って、
神道というか、わたしたちの感覚に近いです。彼らは、人が死ぬということを
「姿はなくなったけれど、鳥になったりしている。いまはたまたまこういう
姿になっているが、魂は不滅のものだ。だから死を恐れることはない」
という。川は先祖の血液なのだとか。どれも自分の体の一部として自然
そのものと一体になっているんですね。
堤:「自分は自然の一部だ」と感じると、死が怖くなくなると?
佐治: と、いうことでしょうね。彼らも人が亡くなることはもちろん悲しく、
みんなで弔いをするけれど、死は人間の姿をしていたことへの終結宣言で、
次があるということです。・・
堤: 私は父の死を前にしたときは、なかなか受け入れられませんでした。
佐治: いままで息をしていた人が、姿はそのままだけれども息をしていない。
モノになってしまったというのは、なかなか受け入れられないものです。
自分で自分の顔を見ることができないように、人は自分の死を見ることが
できない。見ることができるのは、他者の死だけです。となると、誕生前の
記憶がないとすれば、その人にとっての人生とは、初めもなければ終わりも
ない「永遠」だということになるのかもしれない。しかも、その人が残した
ものは、現世の人々によって引継がれて?それが人生というものなんでしょう。
佐治: 世のなかは対極のものからできています。「生きるとはどういうことか」
を知るためには、「死ぬ」ことがどういうことか知る必要がある。
対極から考えていかなければわからない。死を知るには、じゅうぶん生きて
みないとわからないと、いうことですね。先ほどもいいましたが、他者の死と
身内の死では感じ方にものすごく落差があるので、身内の死を経験していなけ
れば人への慰め方もわからない。悲しんでいる人には、ただ黙って寄り添う
しかないでしょう。寄り添うことが究極の愛ですからね。何もできない自分は
無力ではあるけれど、相手にただひたすら寄り添うことはできますよね。 ≫
▼ 死とは、「生前の状態に戻ること」を知れば、さほど深刻になることもない。
だからこそ、生きているうち、一期一会で生きなければならない。
「自分は(自)然の一部(分)である」であるならば、自分の死、個々にとって
の人生は永遠だが、小さな入替わりでしかない。真剣に考えても考え損になる?
としても、考えなければ、そのことさえ気づかず終えてしまう。ふぅヾ(´ε`;)ゝ
・・・・・・
4840,閑話小題 ーワールドサッカーのジンクス
2014年06月15日(日)
* 3964の法則なら、今年のW杯優勝はウルグアイ!?
ワールドサッカーにも多々、ジンクスがある。先日、TVで“3964の法則”
を紹介していた。そこで、ワールドサッカーのジンクスをネットで調べてみた。
●《 “3964の法則”では、優勝はウルグアイ
4年に1度のサッカーの祭典には、2回以上優勝した国の優勝
年度を足すと「3964」という数字になる都市伝説が存在する。
この「ワールドカップ 3964の法則」
サッカーワールドカップには3964のジンクスというものがある。
ワールドカップで過去に優勝した国は、過去の優勝年の年度と
現在の年度を合計すると3964のジンクスになるという有名な法則である。
アルゼンチン:1978+1986=3964 ブラジル:1970+1994=3964
ドイツ :1974+1990=3964 :1962+2002=3964
:1958+2006=3964
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06月15日(月)
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