ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5876,閑話小題 〜朝鮮戦争が現実的に ー3
ー倒れてしまった悲しみにー
倒れてしまった悲しみに 今日も涙の雨が降りかかる
倒れてしまった悲しみに 今日も嵐が吹き荒れる
倒れたしまった悲しみは たとえば樹氷のように突き刺さる
倒れてしまった悲しみは たとえば黒い血海のよう
倒れてしまった悲しみは たとえば虚空の空飛ぶ蜻蛉よ
倒れてしまった悲しみは あなたの愛に気づくとき
倒れてしまった悲しみは 夢みた昔を懐かしみ
倒れたしまった悲しみは 倒した人を思いだす
倒れてしまった悲しみは 光りの日々が走馬灯
倒れてしまった悲しみは 独りの自分に出会うとき
倒れてしまった悲しみは 悲しい悲しい悲しみよ 悲しい悲しい悲しみよ
倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは 倒れてしまった悲しみは
▼ 悲しむべき時には、悲しむが良い。 本当の悲しみが出てくるのは、
数年先になるのだろう。まだ、悲しむだけの余裕がないのかもしれない。
・・・・・・・
3674, 自己を見つめる −2
2011年04月17日(日)
「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
私たちは人生の現実を経験を介して初めて知られてくる、経験をして
みなければ分からないのである。人生は、経験を通してその深みと広さを増す。
自分とは、経験してきた全てである。人生は様々な過去の追憶を返し、暖め
なおすことしか、事実上何処にも存在をしない。良質な経験の積み重ねこそ、
人生を豊かに、実りあるものにする。
ー 第一章 経験 の中より ー
哲学者・ダガマーは経験について3つの点をしてきした。
・まず第一に、それが誰も予見できず、見通せない仕方で生じてくる点である。
したがって、経験は常に新しさを含んでおり、経験がもたらす内実を、
まったく予測することができない。
・次に第二に、そうした経験の過程は、いつも否定的過程であって、実際に経験
するまでは、当の事柄を知ってなかったことを痛感させられるわけである。
つまり私たちは徹底的に、浅見や独断を捨て去らねばならないことを教えられる、
とガダマーは断じる。
・さらに第三に、それゆえに経験とは、本質的に、辛い不快なもの、期待の
幻滅を伴うものである。かつてギリシアの悲劇作家アイスキュロスが語った
ように、人間は、「苦しみをとおして学ぶ」のである。それが経験ということ
であり、こうして初めて人間は、真の洞察と自己認識を獲得するのだ、という。
要するに、経験をとおして、私たちは、あらゆる予見の限界と、すべての
計画の不確かさと、人間の非力さと有限性を、徹底的に思い知らされるわけ。
実際、こうした労苦にみちた経験を介して、私たちは、ほかならぬ自己自身の
人生の実相のただなかに立つことになる。そしてそれ以外に、どこにも人生
というものはない。私たちは、経験において初めて、自己自身と宿命的に向き
合うことになる。 経験のなかにこそ、自己自身があると言いうるゆえんである。
▼ 人生を振りかってみて、経験の中こそ、自分があると、つくづくと思い知る。
その境界が自分の限界であった。だから迷ったら、とにかく、一歩踏み出して
行動することが、自分を広く深くする。「自分を見つめる」とは、自分の経験を
見つめることと同じである。 経験して初めて、知るが、それは否定的過程を
踏む事であり幻滅を伴なう。 とはいえ、落語の与太郎では?
04月17日(月)
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