ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5299,『自分を超える 5つの法』とは  〜『自分を超える法』ー⑥
まきこんだ。 十分経っても、男どもはひたすら笑い続け、もはや授業どころ
ではない。教壇の高見も笑っていた。「誰にでも間違いはある」とフォロー
さえしていた。あれほど些細な間違いを見逃さず、なべて正座を命じていた男
の言葉とは思えなかった。もちろん、三井に正座命令はなし。三井の導いた
笑いは「鬼」と陰口された教師の心すら溶かしたのである。その日より三井の
名前は学校中に轟いた。あんなに笑った経験は、二度とない。とことん生真面目
な男が、私の人生最高のスマッシュ・ヒットを飛ばす。「人間には無限の
可能性がある」この言葉を聞くたび、思い出すのは、あの木曜五限の地理公民と
三井のこと。私が笑いの偉大さについて身をもって知った、十四歳の夏の午後。】
▼ 以前に、ここでも書いたことがあるが、学生時代のドイツ語の授業で、誰か
がドイツ語の訳をしていた。「・・その時、遠くから犬の鳴声が聞こえてきた!」
と、同時に遠くから、それを待っていたかのように、「ウ〜 ワンワンワン」
と犬の鳴声。その瞬間、かたい授業の最中、部屋中が爆笑の嵐。
 あれだけ集団で腹の底から笑った経験はなかった。
・・・・・・・
3462, 純粋持続 −2
2010年09月17日(金)
 * 純粋持続と自由
ベルクソンによれば、この純粋持続こそが自由の源泉である。 通常、自由といえば、
選択の自由を意味する。たとえば、ひとつの道を進んでいると、その先が二つに
枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進むか自分の意志に
基づいて選択できる。そこに自由があるとされる。しかし、ベルクソンにいわせれば、
そのような分岐路を思い浮かべること自体が、空間化された時間による発想で
あり、生命の自由な持続に即したものではない。 生命にとっての未来というのは、
分岐路のようにあらかじめ存在するものではなく、現在において不断かつ連続的
に創造されるものであるからだ。したがって、自由とはこの純粋持続への帰一
であり、その発現としての純粋自我による行為。他方、物質界は一瞬前の過去を
惰性的に反復するだけであり、すなわち持続の弛緩の極であるとされる。 
物質は自らを破壊するのに対して、生命は自らを形成する。つまり生命には、
物質が降りていく坂を登ろうとする努力をみることができる。 宇宙の万象は、
この持続の種々の緊張による多様な創造的進化の展開である。
そして緊張の極にあるのが、「生の躍動」である。
▼ 以上だが、まず好きなことをして我を忘れている時間が「純粋持続」。
 その時は空間時間は消え、没頭している時、そこに「したいことを、
しているという自由」がある。純心になって対象に打ち込んでいる時、時間も
空間も超越する。   (字数制限のためカット 2015年9月17日)

09月17日(木)
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