ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5269,凶器としての狂気    〜ニーチェ「超」入門〜
無為に時間を過ごしてしまうことにもなりかねない。】
▼ ここで、これまでの人生の価値観を大転換し、未来中心に向けていた目を、
 過去にも向け、過去を修正する作業が人生の仕上げになる。人生を逆照射し、
前向きで時どき見ていた過去を、しっかりと後ろに向き直し、見つめ直す時間も
「内なる時間」ということ。これまで読んだ本や、読みかけの本に再チャレンジ
したり、やり残したことなど幾らでもある。それを坦々とこなすことも
内なる時間といえる。そうこう考えると「人生が自分に余白を埋めて欲しい
ことは何かを聞き出すこと」が必要である。私の場合、この随想日記がある。
 毎朝、これを書き上げた後に、字数制限のため、書いた分だけ過去分の一部を
カットする作業がある。これは、過去のエネルギーのカットのように思えて
辛いが、しかし、その時にしっかりと読み返し、再考することになる。
これこそ私の内なる時間になる。
  ・・・・・・・
3432, 再び、死について考えてみる ー1
2010年08月18日(水)
 数日前に近所の家内の友人が急逝した。 最近、「60歳過ぎれば今日明日
亡くなっても不思議でない。今年しか人生が残されていないと一日一生の思いで
生きなければ。だからチャンスがあれば、何ごとも可能な限りやらなくては。」
と話したばかり。 哲学でも、死について多く考えられている。 以下は、
「現代哲学の冒険シリーズ」の【「死」細川亮「恐れと驚きー死と生の問い」】
を参考にして書き上げた。
≪ そこで「死の人称性」は、死を語る上で分かりやすい説明になる。
・まず三人称の死は、「彼らが死んだという過去形」か、
「彼は死ぬだろうという未来形」で語られる。
・一人称の死(私の死)は、過去でも現在ではない。
 将来自分は死ぬだろう、死ぬ運命にある未来形である。
・二人称の死は、「あなたが死んだ」と過去形ではいえない。
「あなたは死ぬかもしれない」とはいいえるが、あまり馴染まない。
弔辞でいう「あなたは死んだ」というのは過ぎ去った過去のことでなく、
葬儀の現在のこと。したがって、あくまで現在の範疇。人の死の人称性の、
一人称、二人称、三人称が、過去・現在・未来の時間性を有している。≫
 ー以上だが、今回のような亡くなる前日に電話をしたが不在といわれた
友人が、翌日、そ連れ添いから「実は死に病で最近になり入院していたが、
朝方亡くなった」と電話があり、家内がショックを受けた、という死に話は、
間接にしか知らない二人称の死であり、もっとも死について考えさせるケース。
そこから逆に、死から生への逆照射をすると、【生きるとは何か】のヒントが、
みえてくる。【私は生まれた】と、逆に私の誕生を過去形でしかいい得ない。
未来の死と、過去の誕生、「現在、生きている私こそ、この世の存在」
ということになる。だから、現在、四苦八苦としても、それを生きる証として
受け止めるのが自然。私の死と誕生の、死の時点は、私にとって特異点。 
この2つの特異点の間が「私が生きている」現在形として語ってよい。
自分の過去も、現在、そして未来を思い浮かべている現在も含め、全てが現在
と言いうるのではないか。そこにベルクソンの時間論の意味が、ある。
時間など人間の主観?の捉え方でしかないと。 で、二人称の死から考え
られるのが、自分の死と生のイメージの絵の書き加え、修正作用となる。
・・・・・・
3057,逆説思考
 2009年08月18日(火)
(字数制限のためカット 2,015年8月18日)

08月18日(火)
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