ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5187,世間の捨て方 ー②
ここでいう「鈍き刀」というのは最初から鈍き刀というんじゃないんですよ。
本当に鈍い刀を磨いでもだめ。いい刀だから磨げる。しまいにはペロンペロン
に柔らかくなるんですよ。兼好法師は「妙観が刀はいたく立たず」とも
書いているけど、やっぱり「立たず」なんて言葉は「鈍き刀」じゃ
ダメなんです。それが良くわかったの。
ーー
白州正子の対談を何度か読んだことがあるが、河合隼雄もたじたじなくらい
言葉の剣先が鋭い。鈍き刀を磨いでも鋭くはならない。鋭い刀を磨いて磨いて
磨きぬいて鈍くなった刀こそ・・・ よき細工に使うことが出来るという。
言葉の奥底をみないと真の意味がつかめないというが、まあ、凄いことをいう。
芸道や能力のことを言っているのだろうが。
・・・・・・・・・
2611, サルトルについて、考えてみる −2
2008年05月28日(水)
改めて、読んでみるとナカナカ新鮮に思えてくるところが多い。
読んだ当時から40年経て、経験を多くつんだこともある。当時はピンと
来なかったことも、今では納得する。経験は、「自分」の財産なのである。
ー以下の論が、非常に面白い。
*「意識」のあり方は、どのようなものか?
サルトルは、「世界へと関わる」ということを、「否定」と「無」と結び付け
考える。人間が世界へと「「関わって」いる、ということは、人間は世界では
「ない」ということなのだ。たとえば、私は目の前のグラスでは「ない」し、
窓の外の木ではない。サルトルは、人間が「世界に関わる」というあり方を
しているが、それは「世界ではない」というあり方だと、いう。言い換えれば、
人間と世界の間には「すき間」「裂け目」がある、ということだ。人間が
「世界と関わる」ということは、人間が「世界との間に裂け目を作る出す」こと
だと考える。サルトルは人間と世界の間の「すき間」「さけ目」を「無」と呼ぶ。
ただしここで重要なのは、意識は、裂かれた片方の「モノ」なのではなく、
「さけ目そのもの」ということだ。意識としての人間は、いわば世界の中の
裂け目、世界の中の無である。それは、意識が関係する片方の「モノ」ではなく、
「関係」そのものであり、外部の世界への「矢印」そのものである。・・
「世界に対して」裂け目をもたらす人間は、それだけでなく「自分自身に対して」
も裂け目をもたらす、とサルトルはかんがえる。人間は、常に過去の自分から
脱出して新しい自分になっていく存在である。過去と現在を乗り越え、未来に
向かって自分を投げかけていく存在、それをサルトルは「投企」と呼ぶ。
▼ 解)人間の意識が、世界と関わると、その世界の間に裂け目をつくりだす。
それも人間の意識は、片割れの一方ではなく、裂け目、世界の無である、という。
過去を振り返ると、実感として接してきた世界の片割れとしての自分というより、
色いろ経験してきた世界の接触の中での私の意識は、それぞれが「無」だった。
(字数の関係でカット 09年05月28日)
05月28日(木)
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