ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[383198hit]
■8165,閑話小題 〜商売都市?長岡で生れて
革命的な意味をもっていると感じた。もし彼らが正しければ認知科学者は
間違っていたことになる。つまり「人間の認知はどこでもみな同じ、ではない」。
人文・社会科学諸分野の研究者たちは、明確にそれと言わなかったが、実は
思考の本質について非常に重要な主張を行っていた。
第一に異なる文化の人々は、世界の本質についてそれぞれの根本的
メタフィジックスな信念、彼らなりの「形而上学」を有している。
第二に、それぞれの人々に特徴的思考のプロセスには大きな違いがあること。
第三に、そうした思考プロセスは、世界の本質についての信念に合致したもの
であること。言い換えれば、人は自らの世界観に合致した方法で世界を
認知するということである。
注目すべきことに、社会の構造や人間観というものは、それぞれの社会に生きる
人々がもつ信念体系や認知プロセスと非常によく合致しているように思われる。
アジア社会は、集団や周囲の他者との協調を重んじる傾向があると言われる。
こうした特質は、アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向を
もっていることや「出来事は極めて複雑なもので、その生起には多くの要因が
関係している」と信じていることと合致。これに対して西洋社会は、個人主義的
でお互いの独立性を重んじる傾向があるとされる。こうした西洋人が特定の事物
を周囲の文脈から切擁して観察する傾向をもっている。≫
▼「アジア人が文脈を重視して広い視野で世界を眺める傾向をもっている
ことに対して、西洋社会は、個人主義的でお互いの独立性を重んじる傾向が
あるとされ、西洋人が特定の事物を周囲の文脈から切り離して観察する傾向を
もっている。」ことより、「気を見る西洋人、森を見る東洋人」という本の題名
になっている。同じ森林を見ても、これだけ思考の仕方が違ってくる。
また一神教の欧米と多神教の東洋人とは、同じ現象でも受け止め方が違って当然。
それと、好き嫌いという感情で違ってくる。「世界についての考え方は根本的に
ひとつである」 大前提が違うとすると、文明の相克はあって当然。
争いは永遠に続くことになる。
そこには、神も仏も存在してない。あるのは、階級
社会。だから、そこに教養が必要になる。 兄、姉を含めた10人家族の中で、
それは、厳しい日常が、そこには、存在していた。ある意味で、テント生活の
ようなギリギリの日常。頼れる逃場が、一番怖い両親の膝の上… そこには、
狭いが、広い世界が広がっていた。今でも、ある意味で、その世界の住人の
ような! 両親が当りか否かで人生は決まっていたような。上の三人の兄達
の生き様から感じていたのが、生命力。力が無ければ、それが果てれば
消滅するするしかない。
・・・・・・
08月28日(月)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る