ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■8153,閑話小題 〜無知の効用…
多いと言うことがあげられます。
発音の特徴として気候・風土条件からか、はっきりとした発音よりこもった発音
が多くまた、短縮したりリエゾンしていると思われる表現も多々見受けられる。
・イとエが曖昧、もしくは逆転する場合もある。
ex:「色鉛筆」=「えろいんぴつ」
・ダ行、ザ行の音がラ行に変ずる。
ex:「そうだ」=「そうら」、「したけども」=「したがろも」
・〜〜の物、〜〜と言うような事、その行為と言った話題の対象物を「が」
もしくは「んが」と表現することにより会話中に「がぁ、ンが、が」が多く
含まれ、結果として「ガーガー語」と表現される。≫
―
▼ SNSが、これまた面白いのがある。
じじ「おい、町長自殺したてや!」
ばば「なにね〜?おおっこの〜、またどうしたこんだてや?」
じじ「わからねぇ、今テレビ見てたまげたこてや」
ばば「ほんね、ば〜かたまげたて〜」
じじ「おれも死んだら楽になるろか・・・」
ばば「おめさん、死むあんは勝手らろも人に迷惑かけるのだけはやめてくれね」
じじ「・・・」
うちのばーちゃんは「何やらせてもダメな人」のことを
「あれは“ずくなし”で」と言っている感じでした。
--
この前、新潟一番でフリーズドライ食品の特集しているときに、堀さんが
「こういうのは、よく「ノメシこき」といいますけど・・・。」といってた。
・・・・・・
4161, 節目時に何をしていたか ー1
2012年08月17日(金)
ここで人生を5年スパンに区切り、振り返ってみる。ミニ自分史である。
自分の姿が浮き上がってくるようで、面白い。何度も書くが両親と時代に恵まれ
ていたことが見て取れる。歴史的にみて、終戦後40年間ほど豊かだった時期は
ないという。その中で、その豊かさを充分味わった実感は、何ものにも
代え難い財産である。
ー まずは前半から ー
・60年前=6歳、長岡市立阪之上小学校一年生だった。担任は女性の茨城先生。
20歳後半のヒステリックの先生で、優しい反面、厳しい先生だった。 当時の
住まいは長岡一番の繁華街の4階建てのビルの3Fに住んでいた。家は、そこで
衣料店を経営していて、まさに小説のような異様な家庭環境にあった。
成績は普通で、とにかく毎日が面白く刺激的だった。
・55年前=11歳、阪之上小学校6年。勉強に少し目覚め、虐めの要素も
あったが級長にされた。街中もあり、生徒の質は決して悪くはなかったが、
異様な緊張した雰囲気が漂っていた。この辺で、その人の素質が決まって
しまうという。
・50年前=長岡高校二年生で、試験試験の日々。何時もギリギリの成績だった
が追試は受けたことがなかった。勉強をすれど、どうしたら成績が上るかの
術が分からない辛く暗い日々。受験校のため成績で人間が区分される。
・45年前=21歳、立教大學三年。欧州の30日間旅行で、それまでの自分が
粉々に壊れてしまった時期。人生で一番、光っていた。見るもの触るもの
全てが新鮮で、明るく光ってみえていた。時代は1967年、頂上に近づいていた。
・40年前=金沢の‘いとはん’(衣料スーパーのチェーン)を辞めて実家に
帰ってきて、千葉の千城台ビルの計画に入っていた。父は末期ガンで
東京女子医大で手術後、退院した父親と、計画を進めていた。 父は、医者の
宣言通りに手術の一年後に亡くなった。死期が分かっている父と事業経験の
伝達を一年がかりで始めて二ヶ月目に入っていた。将来に向けた明るさと、
死に直面した父親の苦悩の狭間で、真近で人生と事業の原点を学んでいた。
翌年、石油ショックが起き、最悪の出だしになった。
・35年前=長岡の大手通の四角にある実家の衣料量販店の店長で、4歳の頃の
できた古ビルの建て替え工事の計画に没頭していた。引継いだ店も順調に推移、
商売が面白く、身体が浮いているように動いていた。 一種の躁状態で、怖い
ものなし、目は血走り、何かに取り付かれているようだった。 衣料は
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08月17日(木)
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