ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6913,読書日記 〜『不幸論』といえば、中島義道である。
仕向けてくれる。これは正式な教育が授けてくれる最大の恩恵である。
当然のことながら、こうした教育は他者の助けなしにできない。他者は私たち
個人をしばっている拘束をまぬがれているからである。けれども、ここから
導かれるのは、独学の者は生半可な教育を受けた程度にしかなりえないという、
残念だが逃れようのない事実である。 オックスフ・オード入学当時の私の
考え方にはっきりいって欠けていたもののうち、最も重要だったのは、その後の
経過を考えると、哲学ということになる。 人間の関心事の中で最も価値が
あって大切なものとして、哲学は確かに偉大な芸術に近い水準に達しているし、
その理由も似通っているように思う。どちらも、人間が到達しうる最も高い
レペルで真理を探究する活動である。どちらも物事の本質を、つまり存在の
根源的な神秘を探ろうとしている。それを果たせないとしても、人間の理解
に限界があるせいにすぎない。ショーペンハウアーが述ベているように
「芸術家が具体的に行なっていることを、哲学者は抽象的に行なっている。」
哲学者は自分の意見を概念で表現するよりほかなく、そして概念というものには
どうしても一般性がつきまとうため、哲学は芸術ほどの深みには到達できない
かもしれない。だがその一方で、哲学にはできても芸術にできないことがある。
アイリス・マーギックは「よきにつけ悪しきにつけ、芸術は哲学より深い
ところに達する」と語ったが、哲学には芸術よりすぐれた面がいくらかはある
という意味ではそのとおりであるし、全体としては芸術に及ばないという
意味でもそのとおりである。】
▼ 芸術と哲学が教養のベースであるのは今さらだが、マギーの、このような
文章を読むと、より芸術に触れておくべきだったと実感する。 芸術作品は、
作者の魂そのもの。それぞれの時代が生み出した人物が全霊を捧げて、作品の
中に魂を入れ込んだ名作である。それに直接触れ、感動するのが一番、人間の
魂を高めることになる。そのためには時間をかけて対象と向き合うしかない。
・・・・・・・
3440, 再び、死について考えてみる ー4
2010年08月26日(木)
* 死を喩えると
死を喩えると、旅と、眠り、とされる。 「死ぬ」が旅と、眠り、に
喩えとされることは、プラトン『ソクラテスの弁明』の一節にある。
ー「つまり死ぬということは、次の二つのうちの一つなのです。あるいは
全く何もない.無」といったようなもので、死んでしまえば何も少しも感じない
といったものなのか、あるいはまた言い伝えにあるように、それはたましいに
とって、ここの場所から他の場所へと、ちょうど場所をとりかえて、住居を移す
ようなことになるかなのです。そしてもしそれが、何の感覚もなくなることで
あって、ひとが寝て、夢ひとつ見ないような場所の、眠りのごときものである
としたならば、死とは、びっくりするほどの儲けものであるということになる。
・・・・また他方、死というものが、ここから他の場所へ、旅に出るようなもの
であって、人が死ねば、誰でもかしこへ行くという、あの言伝えがが本当とする
と、これより大きい、どんな善いことがあるのでしょうか、裁判長諸君。」ー
葬式で、「故人は旅立たれました」というが、夢なら醒め、旅なら帰って
くるのが前提にある。永遠の眠りというと、そこで夢を見る可能性がある。
無に帰した者が夢の見ようがない。あくまで心象風景でしかないのが、これで
わかる。 最近、ブラックホールに喩えることがある。その人の全てが、
その中に吸い込まれ、再び戻ってくることはない、という意味で、喩えとして
科学的風である。 ブラックホールは生命を終えた星が爆発をして、その重圧で
空間の歪が生まれ、穴が開いて異次元?の時空に周辺のものを吸い込んでいく。
これを死に喩えることは、これはこれで、説得力がある。最近、ホワイトホール
も、存在も云われるようになってきた。何処かの歪から何が噴出している空間の
存在。それは生命ということになる。 面白いのが、死の喩えを、生そのものに
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02月17日(月)
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