ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6873,閑話小題 〜ミネルヴァのフクロウ ―2
              「私の幸福論」福田恆存著     
   * 快楽と幸福 ーA
『面白かったから、まあ、いいや』
『折角、大よそ80年の地球ツアーに○○しに来たのだから、
 深く広く味わい尽くさないと、勿体ないじゃないか』
の内語を呟いている自分がいる。これは快楽主義に影響されてのこと? 
私のレベル?からみて、数ランク上のスケジュールをたて日々を過ごして
いるが、これが慣れれば快適そのもの。 賢者の快楽主義の、「見とおしを
きかし、よく計算する」ことを意識した構成ではないが、少し近い感がする?
そうもしないと、老人性鬱病か、分裂症、痴呆症に陥る危機を実感するため
実践しているが、慣れてしまえば、快楽まではいかないが、快適である。。
その結果、更に徹底した唯我独尊の個人主義者になっている。
   〜その辺りを抜粋
≪・私たちは疲れないように歩かなければなりません。疲れるくらいなら、
 歩かないほうがいい。しいて目的地を定めて、そこに到達するために、
肉体を酷使するなど、ばかげた話ですし、また悪でもあります。目的は先に
あるのではない。歩くことそのことのうちに快楽が見いだせないくらいなら、
歩かないほうがいい。目的は未来の到達点にあるのではなく、現在の歩く行為
そのもののうちにあるということになります。得られるか得られぬかわからぬ
未来のために、現在を犠牲にしてはならぬわけです。

・私たちは、自分の欲望を真に知ってはおりません。ただ禁じられているがゆえ、
その枠を破ることにのみ、自分の欲望があると錯覚している。 (中略)…
はてしもない欲望に、いいかえれば、つねに求めて得られぬ不満というものに
絶望してしまいかねません。そして、自暴自棄になり、いよいよ快楽からは
遠ざかるというわけです。

・どんな賢者なら「見とおしをきかし、よく計算する」ことができましょうか。
自然と人間との間の、他人と自分との間の、さらに自分のなかの無意識と意識
との間の、さまざまな欲望の衝突に直面して、誰がすべてを見とおし、これに
決定的な裁きをつけることができるでしょうか。一人の個人に、それだけの
大事業が可能であるとは考えられません。

・すべてを見とおし、よく計算することが、個人の力にあまるとしても、
自然科学や社会科学の助けを求めれば、それがなんとか可能になりはしないか
ということであります。大ざっぱにいえば、それは正しい。
が、その科学的方法もまた、なにものかに笑われることがないのだろうか。
人生を、そして社会を快適なものにするということが、現代では最高の
「美徳」になっていはいないでしょうか。    ≫
――
▼ 何か、見透かれているような内容である。以前、「歩行とダンス」という
 テーマで書いたことがある。(以下、参照) 両親がことあるごとに、言って
いた、「好きになるまで集中し続けなさい!」と同じ。「旅行」と「旅」の意味
あいに似ている。「旅」は、行くまでのプロセスに価値をおく。振返れば、長い
「旅」だった。エネルギーを入れた分だけ、そのまま返ってきた。踊りは快適で
快楽で、見通しも計算もないからこそ良いもの。泣いても笑っても同じ空である。
――

2001/12/21
[164] 目的と手段

目的の達成の為の手段’がときとして逆転してしまうから面白い。
‘手段の目的化’に転化してしまう。旅館やホテルの二代目にそういうのが多い。
営業の為のゴルフを始めたのが、いつの間にかゴルフが目的になり、
営業が反対に手段になってしまう。
何処でもある話と同時に,自身にも過去に数え切れないほど経験がある。
手段を楽しむ事は大事な事だ、そうでなくては目的は果たせないといっていい。
といって目的を忘れて手段に没頭してしまうのが、人間の人間たるゆえんである。
以前‘ダンスと歩行’という文章を書いたが(後記)まさしくその喩えがピッタシ。
目的は達成したと同時に次の目的の手段になる。
ドアについたら次の部屋のドアへの出発点になる。
至近の例で旅館の二代目が商工会議所の部会の長に選ばれ、

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01月08日(水)
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