ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6015,閑話小題 〜ペットの‘ピー’がビーッと鳴いて
そこで大部分が決まってしまう。それ以前から血筋で決まっていた?
当時、4Fの鉄筋の商店ビル3Fの住居を、この頃に駅裏に引っ越していた。
やっと商店内の生活から解放された。 と同時に、勉強に遅ばせながら目覚め
始めていた。目の前のライバルがハッキリしたこともある。実家の力関係と、
相撲の強さと、学業の成績で、微妙な力関係が出来ようとしていた。
その頃、ある姉に成績の良くなるコツを教わった。「一つでも良いから一度、
テストで百点をとってみな! そうすると、他も自然に良くなるから!」
その時、「これだ!」と思い、実践したのが勉強の目覚めの第一歩。
他に店から自宅と生活環境が変わったことが成績に大きく左右をした。
また中学二年時に兄と同室だが、勉強部屋と机を与えられたこともある。
勉強の出来不出来は勉強空間の親の配慮が大きく影響するもの。
当時は隣家に遊び好きな一歳年上の子と遊びまくっていた。その上、居間に
TVが入って夢中になっていた中ニの後半に、それをみた同じ姉に、
「慶応高校に挑戦してみな!」と言われた。そこでガムシャラな勉強を始めた。
一年の即席では無理だったが、その挑戦がなかったら地元の受験校さえ
入れたかどうか? そのことから具体的に目標を定め無我夢中になる重要性を
学んだ。大した玉でないことは確か。だから水面下の独学は必要だった。
話は逸れたが、写真を通し当時にタイムスリップすると、同級生と自分が
ディズニーのキャラのように見える。頭でっかちで、親が、そのまま縮小した
ような姿で、未来の人生に向かって精一杯生きていた。 この切り口は、
人生の全ての場面に当てはめることが可能。自分とは過去の積み重ねから
成り立っている。記憶を失うとは、自分を失うことになる。この文章を書いて
いて気づいたことだが、80歳まで、あと12年の現在、生から生前(無)
に逆照射すれば、同年代になる。その意味で、団塊の世代にとって、
昭和三十年前半は意味がある。里帰りということか。
やはり「人生は生きているうち」。
・・・・・・・
4178, 事実と真実と真理について
2012年09月03日(月)
* 「真実」と「事実」の違い
事実の中にある真実とは、そもそも何かという素朴な問いかけがある。
以前、自宅に電話の苦情があった。「さっき、お宅の犬に突然に飛びかかられた。
子供のヒモが外れたのは分かるが、危険過ぎないか。腹の虫が収まらないので、
電話をした」と御立腹の様子。ところが家には子供も犬もいないので、
「何かの間違いではないですか?」というと、「御宅の前のアパートに住人で、
駐車場から突然、飛びつかれた」という。そこで「電話番号を間違えたのでは?」
というと「間違いない」と、押し問答。後で分かったことだが、自宅奧の貸家の
住人が、何時の間に犬を飼っていたのである。それなら勘違いは分かる。
アパートの住人は裏に、もう一軒、家が存在しているなど知るよしがない。
事実は、我家の駐車場から飛び出してきた犬が突然、飛びかかったのである。
その現象の事実は、そうだが、真実はこうである。今回の倒産劇で、B層、
C層レベルの創作話が多く流れたようだが、誰も好意的解釈などするはずがない。
ー 以下は、、ネットで、「事実と真実」を検索してみた内容である ー
≪●「実際に起こった事象『事実』に対して、それを個人、または集団の心理、
または理解を通して視られるものが『真実』である」
● 事実と真実の違いは、5Wのうち「いつ、どこで、だれが、何を」に
ついて言うのが事実です。表面には現れない「なぜ?」を見つけるのが
真実を見つけるということ。真実を追求するというのは、 事件や問題の
背後にある何故そうなのか、を見つけること。
● 真実・・・嘘のないこと、本当のこと
事実・・・現実に起きたこと 本来なら「真実」=「事実」に
ならなければならないが、うはならないことが多く「多くの人間は見たい
現実しか見ない」。
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09月03日(日)
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