ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5696,‘我慢内燃説’
「久しぶり!」とか。 ところが何回かするうちに、逆に地軸の方が、
「よう、昨日は散歩に来なかったな!」「より深く呼吸しろよ!」と思いも
よらない切口で呼びかけてくる。 サルトル的にいえば、「対自」と
「即自」の、掛け合いになる。ところが何時もの散歩道のコースに、大規模な
道路拡張工事が始まり通行止。そこで違うコースを迂回して歩いているうち、
電動アシスト自転車を購入した。試しに信濃川の土手を長岡大橋から大手大橋
を一周したところ、この景色と空気に魅されてしまった。三年前のことである。
それをキッカケに早朝ウォーキングがミニ・サイクリングへ変わってしまった。
ところがチャリだけでは、物足りなくなり、大手大橋を渡る時にヒキチャリを
しながら歩くようになった。 暫くすると、その地球軸が再び話しかけてきた。
「久しぶりだね、まあ、下世話なことなど考えてないで、ここを歩いている時
は360度のパノラマを味わえよ!」、「もっと深い呼吸をしな!」
「自分にせっかく出会えたのだから、エネルギーを、もっと吸い上げろ!」、
「何か考える時や、音楽を聞く時には、わたしが同一になったイメージを持つと、
感覚が鋭敏になる!」(ワシにも聴かせろ)とか、なかなか面白い。
スポーツセンターで、ウォーキングマシーン上でiPodの音楽を聞きながら
運動している時などイメージすると、音楽に集中できる。で、この擬人化した
地球軸に何か名前をつけてやろうと、この数日で考えた名前が、「地軸様」。
知らない人が、これを読んだら、「この男、ついに頭にきたか」と思うだろうが、
私にとっては、20年以上の対話の過程がある。自分の魂を擬人化した「真魂様」
でもよい。常に話相手として擬人化して対話すれば、それで深い自己対話になる。
問題は意識してやるかどうか。アブラハム、キリスト、釈迦などは、
このエネルギーの大元と繋がっていたのでは? 魂とは、内的宇宙=地軸様。
・・・・・・・
3859, 釈迦でさえ非難される
2011年10月19日(水)
釈迦にさえ、非難するものがいた。そのものに、釈迦は「あなたが私に腐った
ものを与えたとして、それを私が受け取らなかったら、それは誰のものになるか
考えてみよ。それは、あなた自身のものだろう。それが、私の答えである」と
言ったという。この言葉を知った時、何か内なる拘りの多くが消えた気がした。
要は、自分の受けとめ方で、第三者の非難は、その人自身の問題を投影している
に過ぎない。それをマトモに受けとめるから、その辺の輩の言葉に傷を負って
しまう。要は、自分の信念となる「絶対言明」を確立してあれば、他人の傷口
から出てきた膿の言葉から、自分の傷口に毒が入ってこない。釈迦の言葉には
納得できるものが多い。この時節、釈迦の言葉は心に沁みる。
老年になると、無知は老害となる。
ーーー
* 思いわずらうな。 なるようにしかならんから、今をせつに生きよ。
* 沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、少し語る者も
非難される。 つまり、世に非難されない者はいない。
* もし、清らかな心で生きている人がいたとしたら、
幸福はその人の後に、かならずついていく事でしょう。
* 思慮のある人は、奮い立ち、努めはげみ、自制・克己によって、
激流も押し流す事が出来ない島を作りなさい。
* 善をなすのを急ぎなさい。善をなすのにのろのろしていたら、
心は悪を楽しむようになります。
* 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。
* 他人の過失を見る必要はありません。
* 他人のした事と、しなかった事を見るのではなく、自分がした事と
しなかった事だけを見るようにしなさい。
* 自分で自分を、励ましてあげなさい。
* まず、自分を正しく整えてから他人に指摘しなさい。
そして、他人に指摘したことは、自分も実行しなければなりません。
*「わたしは愚かである」と認められる者こそ、賢者である。 逆に
「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶにふさわしい。
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10月19日(水)
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