ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5560,フーテンの寅の、本質と家族の幸せとは 〜②
≪「あなたの余命は半年です」突然そう宣告されたら、あなたはどうする
 だろうか? とりあえず遺産をどうするか、そこから手をつけるだろうか。
あるいは、かねてより行きたいと思っていた海外に旅行に出かけるだろうか。
いずれにせよ、ぼやぼやしていたらあっという間に半年など過ぎてしまう。
半年・・・たった六ヶ月である。「命はそれまでですよ」と告げられたあなたは、
その半年の間にやるべきことをすべてやり、心にも折り合いをつけて最後を
向かえることが出来る自信はあるだろうか? ・・まさに人の数だけ物語があり、
バッドエンドもハッピーエンドもある。ある時から、私は何がこの二つを
分けるか、あるいは、ある人の終末期に光が包まれるのに、ある人の終末期に
色濃い闇に閉ざされるのか疑問に思った。 結論から言うと、老いる前から
老いることを、病気になる前から病気になることを、死ぬ前から死ぬことを
考え、そこで悲観的になるのではなく、だからこそ一足一足を踏みしめて
生きようと、そう思った人間にはそれ相応の最期が約束されるということが
わかった。老いること、病気になること、死ぬこと、それを事前に考えるのは、
ものすごく精神力を使い、大変な作業である。ともすれば抑うつ的になって
しまうこともあるだろう。しかし、その差は必ずいつか出る。ひょっとすると、
最期ばかりか、明日からも大きな差となって現れるかもしれない。・・ ≫
▼ このところ、老い、病気、死についての本を読むことが多い。 
 読んでいると安らぐのである。どっちにしろ、そう遠くない先に直面する。
その時になって、急ごしらえの準備は、それでしかない。しかし、この本も、
  健康時からの心得、病初期・病中の心得、病末期の心得、死の心得と、
段階をおってるから、シビアで引き込まれる。緩和医療のお医者さんもあり、
著者は、その実態を紹介することで不安を少なくしたいのが、この本の主旨。
 「精一杯生きました。悔いはありません」そういって誇らしげに言える
ための準備、それは「今を幸せに生きる」こと。
・・・・・・
4089, 老いの見本帳ーダークサイト −9
2012年6月5日(火)
       「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
  * 役割としての「年寄り」   
 ここで、「老人と年寄の意味合いの差は、喧嘩の仲裁ができるかどうか」。
村の長老は、争い事の仲介者としての役割が最も似合っている。若づくりを
した粋な老人も良いが、何もかもしりつくした重みのある長老も良いもの。
≪【老人と年寄り】 老人という言葉には、老化現象の起きた人間とか老衰
間近の人間といった印象を覚えてしまって、好きになれない。老人ホームとか、
老人病院といった具合に。それよりは「年寄り」といった呼称のほうが、経験
や年輪を重んじている気配が感じられる。相撲界でも年寄株は必ずしも高齢者が
持つわけではないし、江戸時代の武家では役員待遇的な意味合いではなかったか。
長老、なんて尊称も最高齢者というよりは「年寄り」に近いニュアンスであろう。
 わたし個人の勝手なイメージでは、年寄りとは喧嘩の仲裁ができる人である。
「ここはひとつ、年寄りの顔に免じて堪えてくれんかのう」と言えば、
それで喧嘩している同士はしぶしぶ矛先を納める。立腹しつつも、どこか安堵
した表情を浮かべながら。そんなふうに心の機微を読み取り、また最後の
最後に腰を上げる状況判断の確かさと、人生経験を重ねてきていることへの
万人の敬意とかが、その場を収めるのである。
 ・・ 六十歳を超えると急に「余りにも下世話な」妄想が突出するケースが
散見されることは、既に第5章で触れた。その背景には、若さから遠ざかった
ことへの無念さとともに、年寄りであることを受け入れるに足る価値感が高齢者
に与えられていないことがあるだろう。暴走老人などというものが出現したのも、
老人であるという無力感や孤独感のみならず、年を重ねたという事実を劣化と
いった文脈でしか認識しない世間への恨みが大きかったからだろう。

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06月05日(日)
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