ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[382976hit]
■5377,武器としての決断思考 ー③
そのまま現れ出ている。今さら、虚飾も何もないと開き直るしかない!
・・・・・・
3905、さらし首の独り言
2011年12月04日(日)
あの日から八ヶ月、現在置かれている立場は打首獄門の刑場のさらし台の首のようなもの。
しかし、それが面白い。その首が目をパチクリし見物人の評価している目線と心境が、である。
それも、「その辺の世間様レベル」の目線が、かって憶えのある自分の目線として蘇ってくる。
カント哲学の具体例とすると分かりやすい。見物人は、それぞれ知っている範囲の情報と
知識で烙印を押し付けてくる。それは自分のことを言っているに過ぎないことを全く
自覚していない?愛らしさ。人生の満足度が低い人ほど、自分の影としての対象として
鬱憤をぶつけている。それが世間様の犠牲者、「その辺の輩」という所以。
自己卑下を他の対象に投影するに一番手っ取り早い世間話のため、その視線が、そのまま、
その人となり。 他者を批難することは、自分を更に卑下しているだけの理屈が分からない。
それが身近ほど辛辣になるから、人間観察にはもってこいになる。
元もと卑しい臭いのする人は近づけないつもりだったが、実は違っていた? しかし、
それが人間の赤裸々の姿。これは「自己確立の出来ているかどうか」の基準で見ると、
直ぐに分かる。 この10数年、独学で哲学を学んできた?が、自分の頭で考えること、
現象の中にある事実と、その中の真実。その真実も、本当に真実なのか、それとも
カントの言う、自分の経験と知識の範囲の思い込みなのか?という自問自答。
その意味では「その辺の何=自己卑下の人」も、実は私自身が貼り付けた言葉でしかない。
世の中、何も考えてないと思える人が多い。特に老いてくると、それが露出する。
それが、この文章を書いている自分に当てはまるから、これも自己卑下。
これは、実はお互い様ということ。人生は悲劇と喜劇は紙一重。 悲しくもあり、
可笑しくもありが人生、と実感する日々この頃である。
・・・・・・・
3540, 価値観の中心の書き換え ー2
2010年12月04日(土)
* 石井一男という画家
「ビジネス書 大バカ事典」勢古浩爾・著の中で、数多のいい加減なビジネス書をなで斬りを
している反面、こういう画家には優しい眼差しを向ける。さっそく、ネットで絵をみたが息を飲む
ほど素晴らしい。一種の自閉症?なのだろうが、画家の魂が対象の画中の女性や花から
迸り出ている。何か自分の世界の中で作り上げた女性像が彼の魂から溢れ出て迫ってくる。
何が成功か、そんなものと、勢古がいうのも理解できる。 ーまず、勢古の文章からー
【 石井一男という画家である。TBSの「情熱大陸」という番組で知った。
人付き合いが苦手で、49歳までアルバイトだけで生計を立ててきた。それも、人とあまり
関わらなくてもいい仕事ばかりを選んだ。神戸在住で長屋の二階にひとりで住んでいる。
母親が購入したものだから部屋代は必要ないが、生活費は月七、八万円。酒も煙草も
パチンコも一切やらない。喫茶店にも滅多にいかない。 夕食は近所の惣菜屋で100円に
値下がりした惣菜二種類と100円のパック入りごはんを買って済ます。 しかしそれらを
きちんと器に移して盛る。可愛いことにみかん一個のデギトもつける。それをひとりで正座して
食べる。絵を描いてきた。だれにも師事せず、どの団体にも属さず、途中休止した年月も
あるが、たったひとりで描いてきた。ときおり行く画廊の主人が書いた文章を読んだことが
きっかけだ。この人なら自分の絵を見てもらえるかもしれないと思い、手紙を書いた。
この気持ちはじつによくわかる。ちょっとだけ大きい世界に開くこと。そして、ひとりの
承認者がいてくれたら、と願うこと。主人は石井の絵を見て「こんな人がいたのか」と驚き、
個展を開いた。石井一男の絵は49歳ではじめて陽の目を見た。人々の目を惹きつけたのは、
ルオーの画風に似た純粋な「女神」シリーズである。目を瞑った慈母か天使のような顔が
描かれている。その絵を見た人のなかには、涙を流す人がいた。わたしが好きなのは、
[5]続きを読む
12月04日(金)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る