ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5298,『自分を超える 5つの法』とは  〜『自分を超える法』ー⑤
ゲームを幾つかダウンロードして使いだしたら、これが面白い。午前中は
スケジュールに追われているが、午後は時間がタップリある。それでも仮眠を
したり読書やネットで時間をとられるため、夕食後からTVを見ながらゲームに
嵌っている。2〜3時間は時間がたつのを忘れてしまうほど。止めようと思って
も、もう一回、もう一回と延々と続けてしまう。これを幼児の頃から楽しんで
いたら、現実で自分をゲームの主人公にした夢の追及とか、目標のため目先の
苦労をすることなど避け、ゲームで達成感などを味わった方が遥かに楽に思える
のだろ。 なるほどバカになるわけだ。
  * ど忘れ
 数日前に、以前に一度『哲学人』を、この随想日記に書いていたことに
後になって気づいたばかり。ところ再び昨日の朝、三年前の同月同日に、全米
NO1の弁護士の著書『議論に絶対負けない法』の感想文があるのに気づいたしだい。
これまでも、せっかく書き上げた後、何か書いていたような気がしブログ内検索
で書いていたことが判明し、没にしたことは何回もあった。しかし二回もたて
続きに気づくとは、やはり少し変か?やはり年齢のなせること? 
書いたと同時に、ハッキリいって内容は一年後に、ここで再読する以外は皆無。
その分、後で読むと面白いが・・・ 
 ・・・・・・・・
3461, 純粋持続 −1
2010年09月16日(木)
 ベルクソンの「純粋持続」の考察が面白い。 
まずは、ウィキペディアで、「純粋持続」を検索した。
 * 粋持続と真の時間
【たとえば、音楽の旋律にゆだねた意識内容は、それを逆向きにしたり、
 こま切れにしたりすることはできない。このように概念や言葉から離れて
内省に専念すると、そこに意識の直接与件として、ひとつの流れを感じる。
その流れは、計量不可能性、不可逆性、連続性、異種混交性を特徴としており、
止めようなき自発、能動によるもの。これをベルクソンは「純粋持続」と呼んだ。
この純粋持続は、空間的に表現できるものではない。というのも、空間化とは
数学的な抽象であり、測定可能、可逆的、均質的、受動的なものとなって、そ
れはもはや流れの連続ではなく、点の継起となってしまうからだ。したがって
古典物理学の(線形的)時間は、真の時間ではない。】
〜〜 以上が、純粋時間の要点だが、
 我われのいう時間は、あくまでも決め事でしかない。日常生活でアナログ
時計や、手帳やカレンダーなど空間に時間帯が印刷され、それを見て日程をたて、
お互い、そして自分自身、その約束事に従っている。それを真の時間と勘違い
している。 しかし、人間の意識に流れる時間とは、それとは違うのは誰も
直感で知っている。日常生活の便利さに惑わされて、意識の時間が持つ性質を
忘れている。人間が作った約束事の「空間的かさぶた」を剥がしてみると、
そこには本当の時間が姿を現すかのようである。その「本当の時間」を
「眠った時間」の状態から分かりやすく説明するためベルクソンは「純粋持続」
と呼んだのである。 豊かさとは、そのような「純粋持続」を如何に確保できる
かにある。たしかに、私が秘・異郷旅行にはまるのは、その時間を濃度深く
確保できるからである。空間移動で、その色濃く感じる空間から感じ取ることが
果たしてベルクソンの、それと「純粋持続」と言えるかだが。人間は定期的季節
の変化から、一年という周期を経験的に知り、それを、それぞれ季節3ケ月、
さらに三等分して一月、そして一日、という単位を作っていった。農耕にとって、
それが大きく役立った。しかし、それは人間が作った約束事でしかない。
人間の心の時間は、それ以前から現在に至るまであった。
その時間こそ真の時間と看破したのである。    ー つづく

09月16日(水)
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