ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5196,閑話小題 〜ギリシャが?
それはすべて、「人類という種を生き長らえさせる(人類の遺伝子を残し続ける)」
ためなのである。 この考えによると、死が到来するのも理解できる。
まず交配が行われて新しい個体ができれば、親の遺伝子は子に受け継がれる。
しかも遺伝子の容れ物(肉体)も新しくなっているし、遺伝子の組み合わせに
よってより優秀な個体が生まれているかもしれない。そうすれば少なくとも
「自分の遺伝子を残す」という目的を、遺伝子は果たしたことになる。
つまり古い遺伝子や容れ物は要らなくなる。だから、多くの動物は生殖期後、
長い時間を生きずに死んでしまう。生殖という非常に大事な役目を終えて
しまった以上、もう他に大きな役割はないのである。次に、もし「死」が訪れ
なければ、限られた空間に、個体は限度を超えて殖えてしまうであろう。
そうすれば、結局その生物の相当数は淘汰されなければならない。 ≫
▼ 死ぬのは自然の摂理、それに従うしかない。その時になり慌てふためくが、
諦めきれないのが知識を持った私たち。「余命半年!」と宣言された時の
衝撃は、計り知れない。昼の間は、まだよいが、独り夜半に目が覚めて、
その恐怖との 闘いは生き地獄だろう。死ぬのが怖いが、余命半年と
悟った時から死ぬまでの苦痛が恐ろしい。だから準備が必要になる。
・・・・・・
4090, 老いの見本帳ーダークサイト −10
2012年6月6日(水)
「老いへの不安 歳を取りそこねる人たち 」春日武彦(著)
* 老いを受け入れる
60歳前後に初老性鬱病の人になる人が多い。人生に充実感が無く、
未練や不満が渦巻いて恨みの気持ちが、世の中から落伍した感情として被害者
意識が生まれる。それが定年などで独りで判断しなければならなくなると、
異様な自己中心的いじましい行為が現れ出る。それは「尊厳を保った肯定的老人」
とは程遠い姿である。次の文章は、高度成長期を竜宮城と見立てた
団塊世代を浦島とみるとよい。
≪ 【浜辺の煙】 浦島太郎の昔話は、なかなか不気味な物語である。
竜宮城の快楽の日々はともかくとして、浜辺に戻ってきたら様子がおかしい。
家々の住まいも景色も微妙に変わり、知っている人は誰もいない。わずか数日を
竜宮城で過ごしただけだった筈なのに、驚くほどの年月が故郷では経過していた。
太郎はすっかり世の流れに取残され、強烈な違和感と孤独感とを味わうことになる。
さらに二段構えの不幸として、玉手箱の煙で太郎は老いさらばえてしまう。
故郷へ帰った浦島太郎を、現代における「老い」のアナロジーとしてみるとどうで
あろうか。孤独死だとか家族の崩壊、地縁血縁の希薄化といった問題はある一方、
今や「老い方」を知らない世代が雪崩を打って老いに突入しようとしている。
エレガントな、ナチュラルな、さりげない老いの作法や見当すらつかないものの、
それこそ数を頼んでどさくさまぎれに「これが今どきの老人だ!」とばかりに、
賑やかに事態を乗り切ってしまえそうな気もするのである。
ストーンズだってとっくに六十歳を過ぎてるぜ、といった調子で。つまり老いに
孤独や寂蓼感はつきものだけれども、考えようによっては、結構アナーキーな
ノリで老年期に身を投じられるのではないか。そんな妙に楽観的な気分もどこか
心の中に居座っているのである。だから独りで浜辺に停む浦島太郎のイメージに
我々自身は重ならずに済むかもしれない。その一方、玉手箱の恐怖の方が我々
にはリアルではないか。玉手箱なんか開けなければいいといった話ではあるまい。
生理的な老化のみならず、諦めや気落ちや悲しみや絶望が、玉手箱の煙となって
我々を老け込ませる。アンチ・エイジングなどと称して誤魔化そうとしても、
玉手箱の煙は我々の心の中にまで染み込んでくるだろう。 ≫
▼ 浦島太郎の教訓は、時代の現象に浮かれ、飲めや歌えで生きてきた人が、
何かのキッカケで自分の老いに気づかされ、周囲を見渡すと若いときの友人は
亡くなっていて、独り残されていた現実に呆然とする、ということ。
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06月06日(土)
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