ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5178,閑話小題 〜日本の将来に疑問
▼ ソクラテス、デカルト、カントの三者の考えは、みな「私」を拠り所
 にして他者や世界と立ち向かっていたと感じていた。しっかりした「自分」
があってはじめて他人と接しることができると考えていたようである。しかし、
19世紀初めに生きたヘーゲルは、この考えに根本から批判する。
自分が自分でいるのは、先に「私」があるのではなく、むしろ他者が先にいる
からであると。少なくとも、相互作用が必要と言う。「他者」が「私」のことを
意識することによってはじめて、「私」は、この世に位置づけられる。人生の
節目どきで、身近にいた他者が変わる時に、この意味が実に鮮烈に見て取れる。
  特に内面の希弱な人にとって、他者の交代の節目は、自分を支える基盤が
無くなり、大きく動揺する。老齢になるほど大きくなる。
 ・・・・・・
3341, 今日からデジカメ写真がうまくなる
2010年05月19日(水)
    「今日からデジカメ写真がうまくなる」 久門易著
 元もと写真が好きで多く撮ってきたが、デジカメが出来てから、それが
より多くなったようだ。それにしてもデジカメの機能の日々の進化は目を見張る
ものがある。プロとアマチュアの差は、「多くの角度から枚数を撮って、
その中からベストのものを選択できる要因の差」という。
 (字数の関係でカット2,012年5月19日) 
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2966,ミューズが降りる
 2009年05月19日(火)
先日、立川談志のテレビインタビューを見ていたら「ミューズが降りた」芸
について語っていた。年に2〜3回はあるという。 話芸の中の人物に魂が
降りてきて、自分でも信じられない芸になる。その幾つかの中の一つの
「芝浜」の録画を放映したが、何度か観たことのある録画。名優の演技には、
度々あるのだろう。森光子の放浪記の演技の中でも多くあったはず?
談志曰く、「その時の芸は自分でも抱きしめたいようだ!」
  ーネットでミューズを調べてみると・・・
ー「ミューズ とは、ギリシア神話に出てくる、文芸・音楽・舞踊・哲学・天文
・芸術一般などの女神たちの総称。個々の女神は、Muse ミューズで単数の形に
なります。 大神ゼウスと、記憶を意味するムネーモシュネー女神のあいだに
生まれた、9人の姉妹とされている。ー 芸の中の人物を演じていると、
その人物が自分を観ている錯覚を覚えるという。 霊感の鋭い人の感覚は、
鈍い人に解りようがない。スポーツ選手でも、政治家でも、一番勢いの乗って
いるときは、誰でも神がかる。神?が本人を使っている状態か。頭に浮かんだ
イメージに自分を通してエネルギーを入れると、魂が入るということだ。
芸術品もミューズが降りた神の仮の姿とみれば、違った面も見えてくる。
私の同級生の兄が「能」をしているが、「能の世界は現実か、現実が幻想世界
か、混同することがある」(新聞紙上)と、同じようなことを言っているのだろう。 
ところで私にミューズが降りたことがあっただろうか? いや、誰にもあること
でしかないか?言わないだけ、表現する場がないだけ、表現方法を知らないだけ、
それだけ人間の脳力は深いということ。 
(後記ー偶然、昨年書いた、「ごっこ遊び」が、関連したような内容。)
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602, ごっこ遊び
2008年05月19日(月)     
          ヽ(★>з

05月19日(火)
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