ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5176,人生相談という気晴らし! 〜⑦
これまた解釈の仕方ひとつ。不幸の時期ほどベストのことが隠されている。
ベストよりベターが良いと、信じているんじゃないのか、彼らは?いや自分か?
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3704,自己を見つめる −22
2011年05月17日(火)
* 死について ー� 「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
死に際し、結局は神に頼りざるをえないのが人間。絶対者への希求に行き
当たるのである。 最後は絶対者の支えなしには、人間自身が、己を支える
ことが出来ないのである。私という主体が死という終わりに、
根本態度として神様無しにはいられない。
【 神の子であるイエス自身が、ゴルゴダの丘で十字架に架けられたとき、
「わが神、わが神、なぜわ私をお見捨てになったのですか」と、大声で叫んだ。
西田幾多郎が、言ったように、有限性の極みのなかで、その逆対応的に、
絶対者への希求が現れてくるのである。もちろん、その絶対者をどのようなもの
として思い描くかという立ち入った内実は、宗教的信仰によってさまざまであろう。
しかし、そうした観念の根底に、すべてを知る者としての絶対者という概念が
潜むことだけは明らかである。なぜなら、この現実の悲惨をすべて知り尽くし、
その上で、さらに、それを裁き、審判し、あるいは、善き者を許し、嘉し、
こうして、すべてについて、正義の秩序を保持して、万物を支え、生かし続ける
であろうところの絶対者というものの観念の根底には、その根本前提として、
その者が、生起したいっさいの出来事を見抜き、知り尽くし、記憶し、
けっして抹消されることのない全知のなかにこれを映し出す働きを行うという
ことが、予想されているからである。万物を知り、そのあるべき秩序を保持し、
それらすべてを見抜いて、審判と恩寵を与え、そのようにして、それらを本当の
意味で生かす根源的な働きを行うところに、絶対者の絶対者たるゆえんがある
ことを、誰もが理解しているからである。そうした絶対者が、実際にどこかに、
この世界の内にか、あるいはその外にか、確固として、人間を越えて、現実に
存在するかどうかが、問題であるのではない。そうではなく、むしろ死の限界
意識および、それと連なる人間の悲惨という事態の自覚を介して、私たち人間に、
懐疑と絶望と憂悶のなかで、それと矛盾するかのように、こうした絶対者への
希求が湧き上がってくるという、その抑えがたい祈願の強靭な根源性そのものが
問題なのである。そこに、絶対者の観念の生まれ出る根源があるということが
大切なのである。言い換えれば、死の問題意識は、こうした絶対者の観念を生む
土壌であるという根本事実が重要なのである。おそらくは、そうした絶対者の
観念は、私たち人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎないのかも。
しかし、私たち自身のうちには、時を越えた不滅の全知の存在を要請する根強い
希求が、最後の時に至るまで、燃え盛っていることだけはたしかである。
それが、人間の生存とその努力を内面から支える根拠をなしている。
その根拠への確信が引き抜かれるとき、おそらく、人間の生存は、その究極の
意味と支えを失い、人間自身が、崩壊するであろう。人間の生存の営為が無意味
でないためには、その精進と努力のいっさいを移ろうことなく見届け、意味
づける絶対者の眼差しがどこかに存在しなければならない。誰もが、みずからの
心の奥深くに、そうした絶対者の眼差しの影を宿している。そこに、人間存在の、
畏怖すぺき尊厳の最終根拠がある。それは、死をも越えて光輝く人問の尊厳で
あり、人間をとおして瞬く絶対者の眼差しである。 ーP・291 】
▼「死の問題意識は、絶対者の観念を生む土壌であるということが重要。
絶対者の観念は、人間自身の救いようのない現実意識の裏返しにすぎない」
絶対者の眼差しが人間には必要欠くべからざるである。大部分の凄惨な最後は、
それを示している。
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3339, 2011年新聞・テレビ消滅 −2
2010年05月17日(月)
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