ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[384780hit]

■5171,閑話小題 〜ボ〜ッとしたデカルトの時間
現象と結びつき、それらのリアルな脅威や恵みが、直接の畏敬の対象だった。
その後、徐々に抽象化されていく過程では、多くの装置を必要とした。装置とは、
大伽藍であり、宗教画や彫刻であり、神話や経典である。それらを使って
人びとに極楽浄土や天国を信じさせ、信仰に導いた。この段階ではまだ、
宝石や黄金、美しい花や天女など、極めて世俗的な妄想を抱かせている。
しかし、宗教の抽象化はこれに留まらい。禅宗に至っては、脳内での世俗的な
快楽や美しさへの想像さえ否定する。すべては無であるという禅宗の経典、
般若心経では、直接的な物欲だけでなく物への妄想さえ捨て去ることにより、
心の平安を得ようとする。これによって宗教は完全にリアルから切り離され、
バーチャルな観念へと昇華きれる。 
◎一方、お金はどうか。ーつづく ≫
▼ お金の亡者は、金を神のように崇める人をいう。世の中の9割方の問題が
 金で解決出来る代物なら神様より頼れる紙切れである。神が共同幻想なら、
それを信じている世界では通用するが、通用しない世界では、紙切れの存在で
しかない。信じばこそ、そこに価値が出るもの。その価値を生み出すための装置
の重積で、妄想から信仰に昇華させていく。資本主義における神こそ、金である。
アメリカのドルと国債こそ、神に近い存在であった。それも今や、そのカラクリ
(欧米の資本主義)が崩壊しつつある。
 ・・・・・・・
3699, 自己を見つめる −20
2011年05月12日(木)
           「自己を見つめる 」 渡邊二郎 (著)
 * 死について ー�       ーP・283
【 死の壁に突き当たって打ち砕かれ、この世での自己の赤裸々な実存の現実
 へと跳ね返されて、そこで、みずからの過去を背負い、あるべき将来を目指し、
現在の状況のなかに立って、熟慮し、行為し、人生の道を切り開いていって、
自己と他者と世界と存在のすべての意味ある本質充実を達成すべく格闘して
生きるよりほかにないが、それが人間が生きるということである。それはまた、
人間が生きつつ死ぬということであり、さらには死につつ生きるということ。
したがって、この世で生きる自己の存在の根底には、こうした死の存在論的
概念が深く食い入っている。死を抜きにして、自己はなく、人生はなく、
この世の生存はない。無にさらされたものとしてのこうした人間的自己という
その必然的運命の自覚の上に初めて、具体的な医学的現象としての死の諸相も、
位置づけられうる。 自分が、癌で死ぬのか、事故で死ぬのか、成人病の悪化で
死ぬのか、老衰によって天寿を全うするのか、それは誰にも分からない。
しかし誰もが、この世に生まれてきた以上は、医学的な具体化を伴って出現する
死に早晩さらされることを自覚し、自己の無化を心得つつ、終わりある自己の
人生を深く銘記し、心の奥底でその覚悟を整え、その孤独な最期を密かに見つめ
ながら、いままさにこの世のさまざまな営為に携わって生存の努力を重ねている。 
こうした意味で、明るい現実の根底には、穴が穿たれ、虚無の風が吹き上げて
いると言ってよい。そこには、暗い無の深淵が、底なしの無気味さを湛えながら
広がっている。自己の存在の根底には、無が潜んでいる。考えてみれば、自己が
この世に存在する以前に、元来、自己は、どこにもなく、無であった。 
いま、自己は現世のなかの活動に浸って、一見確固たる実在感を覚えている。
しかし、無常のこの世は、うたかたのように過ぎてゆき、再び自己は、存在の
無のなかに沈み込む。無としての存在の大海のなかに、ひととき浮かび上がって、
浮き草のように漂い、必死にもがいて、確固たる存在を築きえたかに思った
自己存在は、やがてまた、無の大海に呑み込まれてゆく。ハイデッガーが言った
ように、死は、無の枢である。そこには、人間には窺い知れない存在の秘密が
隠されているとも言える。誰もその奥を覗き込んだ者はいない。さりながら、
かつて、エジプトのザイスの神殿に、帳で隠された女神が祀られていたが、

[5]続きを読む

05月12日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る