ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5160,知の逆転 〜⑫
最重要問題である。 こういう否定的な感情は多れ少なかれ、誰のうちにも
巣くっている心の病だからである。なぜなら人間は、どこにおいても、厳しい
人間関係のなかに置かれ、大なり小なり、この世の荒波にもまれ傷つ経験を
免れがたいからである。】
▼ 無条件に親の愛をうけた人は、それが温もりとして性格を形成する。 
 逆の人は否定的感情に支配され、深く自分を傷つける。それは誰も持って
いるが人により強弱がある。 普通の流れでは、それは出てこないが、
節目時に暴風となる。それも家族全体が。
 ・・・・・・・
3323, 「なぜ・なぜならば」の極限としての自由
2010年05月01日(土)
 『カントはこう考えた ー人はなぜ「なぜ」と問うのか』石川文康著−3
「理性の極限として自由に行き着く」とは、驚きだが納得できる。 
そしてカントも自由が「創造的能力」と看破。自由は第一原因であることから、
当然の帰結である。  自分の真にしたいことを人生を通して貫き、創造性を
発揮することが自由であり、それが理念であり、そこに理性が働くことになる。
 *「なぜ・なぜならば」の極限としての自由  ーP・205 から
≪ 自由は第一原因である。原因は理由であり根拠であり、「なぜ」
「なぜならば」であったから、第一原因としての自由は、意外に思われるかも
しれないが、「なぜ」および「なぜならば」の極限である。日常のことばの
使用法からすれば、「なぜ」は単なる疑問詞であり、「なぜなら」も単なる
接続詞にすぎず、これらが自由とじかに結びつくことはない。
それを思えばよくよく意外な地点に到達したものである。しかし、
「なぜ」「なぜならば」「理由」「根拠」「原因」、そして「第一原因」と、
一連の鎖を極限までたどってくると、おのずと「自由」に逢着せざるを
えなかったのである。これらの鎖の項は、いずれも理性のメタモルフォーゼ
(変容・化体)である。理性は自由の最終的メタモルフォーゼである。
そして、自由はあの「なぜ存在するものがあって、むしろ無ではないのか」
というライプニッツ以来の問いに対する、考えられうる「なぜならば」
の中で究極のものである。 その意味で、先にアプリオリな判断が、
ライプニッツによる十分な理由の法則の成長形態であることを確認したが
自由はその成長の極致と言ってよい。われわれ独自の定式で言えば、
「なぜ『なぜ』なのか」という問いに対する究極の「なぜならば」でもある。
この背後に関しては、哲学はソクラテス以来の率直な「無知の知」をもって
答える以外にない。究極の「なぜならば」であるかぎり、そのさらに
「なぜ」は少なくとも理性にとっては無意味である。カント自身も、
「なぜ」自由が可能なのかは、答えることが出来ないとした。自由が「なぜ」
(理由=理性)の極限であれば、理性にとってそれ以上の「なぜ」は
あるはずがない。あえてその背後に踏み込もうとすると、理性の限界外に越権
を犯すことになり言葉が空転する。そこには、理性を満足させうる答えはない。
というのは、理性を満足させうるのは再び理性のみであり、理性の限界外には
「非理性」があるだけだからである。 ちょうど、鏡に万物が映し出されるが、
しかしその中には何も実在していないように。非理性によって満足するものが
あるとすれば、それはさしずめ「構想力」(イマージネーション)であろうが、
それを満足させることができるのも、やはり逞しい構想力であって理性ではない。
・・(略)たしかに自由は無からの創造に類似する。超時間から時間への作用
である自由は、どこか神による無からの創造を思わせる。カントも自由が
「創造的能力」であることを、はっきり認めていた。 しかし、理性的存在者と
しての人間は、その自由ゆえ自己の行為の創造者でありえても、世界の創造者
ではない。≫
〜「よく遊び、よく学び、よく遊ぶ」これが創造的能力を発揮する! 
この「よく」が理性? 親、社会の刷り込みからの自由?
・・・・・・・・・
2948, 報道されないニュース
2009年05月01日(金)  

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05月01日(金)
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