ID:54909
堀井On-Line
by horii86
[386417hit]
■5140,閑話小題 〜北陸新幹線開通1ヶ月
表現を注意していても本音が表出してしまう。しかし、その何倍も、書き出し、
公開することの効果を感じ取っている。だから 偉そうに! と言われても、
その通りと認めざるを得ない。初めから覚悟をして書いている。5年、10年後
から振り返ったとき、書いた時々のマイナス、プラスなど、如何にでもよい
ことを毎日、過去の文章を読み返していて分かっている。以前に都銀の担当に、
「借りた金は、返すな!」という読書感想文を書いたのを読まれ、貸し剥がし
をされかけた事があった。その上に、いわれのない? 数百万を強奪?された
ことがあった。それなりに書き、表現すると周囲に波を立てることになる。
しかし、その蓄積が、このような節目どきに、安定した心を保つことが出来る。
その時に、書く内容に力を落としたら、その分だけ心に違和感が出てくる。
先月末を持って、数ヶ月、節目ということで、休もうとした。しかし、
あと一月で、まる10年に辿りつくまで書くことにした。結果からして、
心を乱さないためには、休まないのが正解であった。 で、・・
・・・・・
3303, 人みな骨になるならば ー10
2010年04月11日(日)
* 死の不安の克服は可能か
ー まずは、その部分の抜粋 ー
老いゆく日々はまた死の不安に対する対処の日々でもある。その圧力が
あまりに大きいため、われわれはそれと正面切って対決するよりは、なにかで
紛らせてしまおうとする。人生前半は若さや時間をもてあますあまり何かで
紛らせようとするが、人生後半になると若さや残された時間の急速な目減りを
直視しないために何かで紛らせる必要が生じる。不安や恐怖に対して、
そこから目を逸らせて別の関心事で紛らせることは必ずしも悪い料簡ではない。
何かで紛らせるのが下手な人物のほとんどは中高年期以後に精神障害に陥る
ように思われる。つまり、何かで紛らせそこねたとしても、自らの死や限界を
直視したり対決したりできるものではなく、ただノイローゼになるだけなのだ
としたら、死の直前まで俗世間のことで紛らせ続けるほうがはるかにましな
選択かもしれない。ある意味で病気というのが紛らせる工夫として最後の手段
なのであろう。少なくとも、病気はそこからの回復という一時の目的を用意して
くれる。 ただ、ノイローゼになろうが、別の何かで紛らせ続けようが、
最後の時が近づいている事実を変ることはない。猛獣にねらわれた駝鳥が逃げ
あぐねて、砂の中に頭をもぐりこませたとしても、猛獣そのものが消えてなく
なるわけではないのだ。 俗世において最低限の衣食住を確保すること以上の
関心や活動の全ては、死や滅亡しないで済ませる工夫でもあり得る。
仕事も趣味も健康法も孫の世謡も老入クラブもゲートも、いやい老人向けの
ものばかりで無い。あらゆる交際、作業、訓練、試合、家事、育児、創作、
旅行、遊興、その他、ありとあらゆる実務と余技と行楽が空虚を埋めてくれる
レパートリーなのである。 与えられた時間の中身を埋めていく営みを、交流
分析の祖、E.バーンは「時間の構造化」と名づけた。確かに、われわれは
無構造な時間、中身のない時間を過ごすのに適した脳を進化させてはいない。
・・(中略)恐らく人間は、ただ死を待っている例外的な状態か、それを
忘れるために俗事に忙殺されている通常の状態かのいずれしか許されていない。
・・われわれのできる最大限の抵抗は、せいぜい「生まれる前なることが、
それほど恐れるべきことか」と自他に問いかけることぐらいだろう。
・・(中略)それがしの不安を宥めるために思いつかれたかどうかはさだけで
はないが、祖先や供養や崇拝もわれわれにとって捨てがたいことである。
・・もちろん、われわれは多くの祖先に負っている。祖先がどこかで安らんで
いると思えば心安んじることができるし、なによりも、わたしたちが、そこで
安んじることができる。しかし、ああ哀しいかな現代のわれわれは、草葉の
陰も、煉獄も、もはや信じていないのである。
▼ あまりにも虚無的な内容だが、そんなものかもしれない、特に目を逸らして
[5]続きを読む
04月11日(土)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ
[4]エンピツに戻る