ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6878,閑話小題 〜チョット変じゃない?
に転用する。何気なく思っていることを書き出すと、ハッとすることがある。
人はそれぞれの心の中で様ざまな思いを数限りなく繰り返しているが、
そこにこそ砂金が混ざっている。それを取り出し、書き出すのがエッセイの目的
であり、日記との違いになる。日記は他の砂も含まれるし、それも必要とする。
・・・・・・
5052,生と死をめぐる断想  ー5
2015年01月13日(火)
            『生と死をめぐる断想 』岸本葉子(著)
  *「いのち」に「わたし」がいっとき宿る 〜玄侑宗久
「而今」とは、今のつらなり。あるのは「今」「今」「今」だけである。
 禅とは、この「而今」を繰返づことで、「わたし」の輪郭を薄くする行。
成るほどである。今、この瞬間が永遠のときの一端がある。
瞑想は「わたし」という「閉じた系」から「いのち」を開放するものだと。
  ーその辺りから抜粋ー  〜P90
≪ 暗唱をしているとき意識は「而今」にあると、玄侑氏は言う。
「而今」とは目的論も因果律も届かないような、三昧にある時だそうだ。
たしかに、すでに口から出て過ぎ去った音を意識が追いかけたり、
次に出す音を頭の中で先取りしたりすると、とたんにつかえる。あるのは
常に「今」「今」「今」。音の連なりは、すなわち「今」の連なりである。
暗唱をするとき、その間だけでも「而今」を体験している。(略)・・ 
 玄侑氏も認めている。人間である限り「わたし」を完全に「なくす」こと
などあり得ない。であるからこそ禅は「而今」を繰り返すことで「わたし」
の輪郭を少しでも薄くしたいと願うのだという。
 玄侑氏が再三書いているのが、「わたし」と「いのち」の関係だ。
「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。
 はじめにそう読んだとき、逆ではないかと私は思った。
「いのち」が「わたし」に宿っている、「いのち」が「わたし」の一部だろうと。
なぜって私の体の諸器官が停止すれば命は終わる。たしかに、私の体が土に還り、
その土から芽が出て、その草を虫が食べて、虫を鳥が食べてといった意味での命
の連続はあるだろう。が、それは灰を収めた骨壼も壊れて形をなくした後という、
相当に長い年月のことだ。頭では理解できても、実感からはかけ離れている。
植物も動物もひとつの生態系をなし人間もそれに属するもの、といった類の知識、
それこそ知性によってとらえられるものだろうと。
 自分の命があと数年単位なのか数十年の単位なのかと気を張っている、
そんな長いスパンの命のことを考えられない、という反発もあった。
が、往復書簡をするうちいつの間にか、「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、
「わたし」<「いのち」という発想が自然なものになってきた。・・ 
それとは別に、「わたし」を超えた何かもっと全体的な何かがあるらしい
ことを感じるようになってきた。・・ ≫
▼ {「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション
 でしかない}という玄侑宗久の言葉に近い{大自然が元もと存在していて、
自分の姿を見いため人間をつくった}を、何かの宗教書で読んだことがある。
地球上に生まれた生命が延々と時間をかけて、この「わたし」が存在する。
その全てを経たものを「いのち」というなら、その「いのち」にいっとき
宿るのが「わたし」というのは当然である。死ぬのは、それから離れるだけ。
・・・・・・
5417,人生で最も大切な技術 ー@
2016年01月13日(水)
       『幸福の探求―人生で最も大切な技術』マチウ リカール著
   * 幸福の探求
 図書館でみつけた非常に面白い本。当分、細部の知識化のため、
24の各章をテーマとして取上げる予定だが、それだけの響きがある。
 フランスの知的環境の整った家庭で育ったエリートが、チベット仏教に
ひかれ、それまでの業績をすべて捨て、ネパールの僧院で30年以上の修行を

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01月13日(月)
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