ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6150、閑話小題 〜実際の降雪量は例年に比べ…
対比が死の恐怖を鮮明に表現されていた。幸福感とは、未来のある群集の中に
感じた「いのち」を体現している感覚。至福に至った感覚、「至高体験」の
経験が蓄積され、何時でも、その感覚を引出せることこそ、幸せの理想。
秘境旅行の大自然との邂逅や、本を通した作家との融合で、感動した至福感
などの蓄積は、目先の現象などでは壊れたりしない。しかし、それさえも、
余命3ヶ月の宣告で、バラバラに破壊される?それほど、自己の死の確信は
恐ろしい? ガンで怯える岸本嬢が、玄侑氏と往復書簡をするうちに、
<「わたし」が「いのち」にいっとき宿る、「わたし」<「いのち」という
発想が自然なものになってきた。・・ それとは別に、「わたし」を超えた
何かもっと全体的な何かがあるらしいことを感じるようになってきた。>
 リカールは、幸せの獲得の妖術?に、瞑想を勧めているが、これは、
後でテーマとして取り上げる。毎日、夜半、4時間の爆睡の後、4時間の
半睡を瞑想の一つ?として味わっているが、これは時々「魔の時間」に
なることがあるが、大部分は「至福の時間」になっている。
それにしても、同月同日に「意味ある偶然の一致」が、あまりに多い!
・・・・・・
5783,福田恆存の「私の幸福論」〜B
2017年01月14日(土)
              「私の幸福論」福田恆存著
   * 快楽と幸福 ーB
 快楽に近い言葉に、「快適」がある。
ネット辞書によると、
「快適」は「心地よい」、
「快楽」は「楽しく過ごしている時に感じる喜び」とあった。
これからして『幸福』とは「快適な状況」で、「喜びを感じる楽しい感覚
ということになるが、それほど簡単に幸せには決めつけられない。これは、
生物だけが実感できる感覚といえば、その極めの体験が『至高体験』。
大自然の壮大な景色などや、偉大な芸術作品に出会った時の感動で、対象の
波長と一体化した状態をいう。感激は心の振動、感動は魂の振動である。
  〜その辺りを抜粋〜
≪ 快楽や快適を目指すところには、その底に利己主義がひそんでおります。
 刹那的な快楽主義の場合、誰の眼にもそれは明かです。
が、エピキュリアニズムのような個人主義になると、外界にわずらわされぬ
「不動の心」というような精神的美徳を表看板にしているので、私たちは
その底にある利己主義に気づきにくいのです。
さらに、社会主義、共産主義、福祉国家となると、貧しい人々の利害を考え、
「最大多数の最大幸福」というような合言葉が出てくるので、そこに利己主義
があるというようなことに、誰も気がつかないのであります。 

人間は人間の道具にはならない。にもかかわらず、快楽というものをつきつめて
いくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ
生きかたに辿りつくのです。だから、私は快楽というものを、おのれ一人に
しかかかわらぬ孤独な迷妄だというのです。

快楽の思想にはなにかが欠けている。私たちはそのことを反省すべきです。
皮肉なことに、私たちに欠けているものの一切を埋めようとする快楽思想に、
わたしたちにとってもっとも大切ななにかが欠けているのです。
それは幸福の観念であります。

「不幸」というのは、ただ「快楽」が欠けているということであり、
「快楽」でないということにすぎない。

私たちは自分の欲するものを得るために戦わなければならない。
その戦いにおいて勇敢でなければなりません。が、今日、「正義」の戦い
を称道する人たちの大部分が、ただ勝利のためだけしか考えていない。
そうなると、敗北すれば、すべては犬死にであります。

将来のことを考えたら、誰も自信がもてないのが当然であります。
思うに、私たちはなにか行動を起すばあい、「将来」ということに、
そして「幸福」ということに、あまりにこだわりすぎているようです。
将来、幸福になるかどうかわからない、また「よりよき生活」が訪れるか
どうかわからない、が、自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきた

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01月14日(日)
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