ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■6149,閑話小題 〜熊さん、八つぁん、珍問答、再び −3 
された研究者の経歴を放棄し、ヒマラヤ山間で仏教僧として35年間修行に専心。
現在は著述家、翻訳家、写真家としても活躍するほか、瞑想の脳に及ぼす効果
に関して展開中の科学研究にも参加。チベットとネパールを生活の拠点として
人道的プロジェクトに従事する。 ≫  
  〜リチャード ギアの内容紹介より〜
≪ マチウ・リカールは、深い思いやりとシャープな論理性と、思わず笑い
 出してしまうユーモアも交えて、人間の可能性に関する偽りを暴き出し、
これまでの仮定に反駁してくれた。‘本物かつ永続的な幸福が可能であるのみ
ならず、幸福は人間の生得権である’ことを明確に示した。我々の中で最も
叡智に富み、最も信頼に値する友人による類い稀なる書である。≫   
▼「はじめに」で、《 本書がフランスで出版されるやいなや、喧々轟々の
 議論が全国で沸き起こった。インテリ層は幸福には関心がない、という意見
を明らかにして、技術として習得することが可能である、という私の議論に
一切耳を傾けようとしなかった。ある作家は、「幸福を逆手に取って人心を
惑わせるのもいい加減にしてほしい」と詰問するような記事を書いている。
挙句の果てに、「幸福の妖術師」と題する雑誌の特集記事まで出る騒ぎに。
パリでの議論やマスコミとの応酬で散々な目にあい、ばらばらに崩された
ジグソーパズルのひとかけらのような自分を見る思いがした。ネパールの山に
戻り、元の生活を始めたことが無常の喜びとなった。以前よりは確かに多忙に
なったとはいえ、ネパールのシェチェン僧院を本拠地として、ヒマラヤを
見上げる隠遁生活を年2ヵ月程度することにしている。》と、あった。
 一冊の世俗的な『幸福本』に、フランスのインテリ層が、ごうごうたる
議論を起きたのは、35年のチベット仏教修行の裏づけのある内容なら、
インテリ総掛りでも論破できないはず。「幸福の妖術師」良いじゃないか!
 素晴らしい魂との出会った思いである。 〜で、以下につながっていく。
・・・・・・
4687, エッセイ力は人生力 ー2
2014年01月13日(月)
              「60代からのエッセイ教室」木村治美著
  * エッセイを書く目的と、日記との違い
    ーまずは、その辺りの抜粋より
《 あるエッセイ教室の作品集を読んでいたら、はからずも、エッセイを書く
 目的を端的にいい当てた文章に巡りあった。その文章は創刊号であるためか、
おのおの、自分の作品のあとに、小さなコラムで、なぜこの教室に入って
エッセイを書くようになったかの動機を綴っている。ひざ思わず膝を打ちたく
なったのは、つぎの一文であった。「エッセイを書こうと思うようになったのは
十年前のこと。それまでは、日記に思いを記していた。心の重荷をおろすように
書いていたが、後日、読み返すと、もっと心が重くなった。物事の見方、人の心
の動きを観察することで、誰が読んでも傷つかない文章を書きたくなった。
きれいごとのとらえ方ではない。考えることで、自分を成長させたい」
 ここにはエッセイが日記と異なる点が、自分自身の体験から、明確に意識
されている。感動的ともいいたい鋭い「気づき」である。エッセイには自分自身
がどこかに登場していなくてはならない。しかし難しいのは、書いている自分と、
書かれている自分との間に、距離をおくことである。自分を他人のように
客観視すること、といい直してもよいだろう。日記ではこの客観化がなされ
にくい。恨みも痛みもドロドロのまま流しこむ。恥も外聞もなく。どうせ自分
以外に読むひとなんていないのだから……。しかし、「後日、読み返すと、
もっと心が重くな」るのはなぜだろうか。日時がたったことで、やや他人に
なった自分が読むからである。おそらく、書いたのが自分であるだけに、
ヘドが出そうになったであろう。自己嫌悪である。そこで、「だれが読んでも
(つまりあとから自分が読んでも)傷つかない文章を書きたくなった」のである。
それには、教室という読者のいる環境で、「物事の見方、人の心の勤きを観察」

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01月13日(土)
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