ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5875,閑話小題 〜朝鮮戦争が現実的に ー2
その代りがシネマ通い。月4〜5回で4〜5千円が高いかどうかだが、居酒屋
や、スナックの一軒分からみれば、価値は充分。問題は、これも続けること。
デジタルの映像漫画を、大スクリーンで、観ると思えばよい。所詮、人生、
振返れば幻覚の悲喜劇の世界。せめて、小さな世界から一時だけでも、
ドロップするのも好い。面白いことに、館内から出た瞬間、全てを忘れる。
人生と同じ。何せ幻想世界であるからだ。それを現実と思うから、変になる!
・・・・・・
4780,ぼんやりの時間 ー9
2014年04月16日(水)
「ぼんやりの時間」辰濃 和男 (著)
* ぼんやり時間について ーつれづれに
10年前に、この本を読んでいたら、どうだったろう?
まだ娑婆っけが強かった年齢。人生の余白を埋めることに全力をあげていた
真っ只中で、ぼんやりなど程遠い生活であった。
ー‘あとがき’の次の箇所が最後のマトメによいー
《ところで、「ぼんやり」という言葉は、辞書ではどう説明されているのか。
何冊かを調べてみて、予想以上に評判が芳しくないことを改めて知った。
「@気がきかないさま。A利発でないさま。Bどこか元気がなく、気持ちが
集中しない様子。C間が抜けているさま。D呆然としていたり、うかつで
あったりする状態。」 多くの辞書では、「ぼんやり」という言葉は否定的な
意味で説明されているし、世間の人ぴとのぼんやり観も、たぶん、同じように
否定的なものだと思う。たしかに、横断歩道のところで呆然とした状態で
ふらふらと車道に歩み出れば、これはもう危険な場所、不適切な場所での
ぼんやりは困りものだ、ということについて、私としては異議もなく、異論も
ない。そういうことは承知の上で、串田孫一は「ぼんやりしているのは人間に
とって非常に大切な貴い時間である」と書いたのだと思う。
私は、串田の文章に共鳴するものだが、それでも、ぼんやりの否定面を
忘れることはなかった。ぼんやりの否定面を仮に「ぼんやりH」といい、
ぼんやりの肯定面は「ぼんやりK」ということにしよう。この本で繰り返し
説いてきたのは、主にこのぼんやりKのことである。「これは、ぼんやりKの
場合です」といちいち断ってはいないが、いままでこの本で書きつらねてきた
のは、ほかでもない、主にぼんやりKのことである。世の中の支配的な風潮に
対して否定的な考え方を示すことは、難しいことではあるが、ある意味では
実に大切なことだと思っている。ぼんやりということを考えるとき、
「ぼんやりH」的な思いが支配的な風潮であるならば、一方で、「ぼんやりK」
的なもの、つまり、ぼんやりには、脳の働きをいきいきさせるものがあり、
生命力をよみがえらせてくれるものがあると主張することは、ことのほか
大切なことではないか。そんな思いが私にはある。私たちは「光」の恵みを
考えるならば、同時に「闇」の恵みにも思いをいたす必要がある。
「陽」の力を思うときは、同時に「陰」の力を思う必要がある。「動」や
「働」や「がんばり」が大切だと考えるときは、「静」や「休」や「ぼんやり」
もまた、いかに大切であるかを考えねばならぬ。日常の暮らしのなかで、
私たちはあまりにも「働」や「緊張」や「がんばり」に力点をおきすぎて、
「休」や「やわらぎ」や「ぼんやり」の効能を片隅に追いやっているのでは
ないか。ぼんやりは「呆然としていること」であり、「間が抜けているさま」
であるということとは別に、「ぼんやりすることは貴い」「ぼんやりする
ことで、なにかが貯えられる」「ぼんやりは活力を生む」という場合もある。
ときおり、ぼんやりした時間をもつことは、生気、活力をよみがえらせる
ためにも必要なのだ。》
▼ 人生には「よく働き、よく学び、よく遊ぶ」ことが核になる。それを、
いつも意識をし、分類し、バランスをとってきた。その他に、もう一つ、
背景に広がる空白も意識してきた。働くでなし、学ぶでなし、遊ぶでない、
ボーとした時間である。これは幾つかの挫折体験などから、否応なしに誰もが
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04月16日(日)
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