ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5785,閑話小題 〜アンドロイドTV 三週間後
第12章 憎しみ 第24章 道
瞑想の実践 あとがき
ーー
「まえがき」の、何ゆえ、順調なキャリアを捨て、チベット仏教徒に
なったのか? 親子の葛藤はどうか? 〜その辺りを抜粋する〜
《 ・・前途洋々に滑り出したかに見えたキャリアを唐突に放り投げて
しまおうとする私に対し、父は失望を禁じえないようすだった。しかも、
「仏教に反対するつもりは毛頭ない。純粋で率直な仏教的教えは、各種
の宗教的教義の中でも独特の立場を確立している。究極の厳密さを要求する、
西欧の哲学者からも重視されていることは事実」と好意的に話しているとは
いえ、確信的な不可知論者である父が、仏教を真剣に受けとめる日が来よう
とは夢にも思わなかった。久しく顔を会わせないのは当り前で、父のほう
からダージリンとブータンまで足を伸ばして会いにきてくれたこともあった。
記者の質問に対して、「息子との間をさえぎる雲があるとすれば、それは
アジアのモンスーンだけだ」と応じている。
こうして私が発見したものは、盲目的な信仰心の強要ではなく、
豊かで実際的な心の科学、利他の心に基づいて生きる技術、深遠な哲学、
内側を本質的に変革する精神的鍛錬などと表現できるだろう。この35年間、
私が理解してきた科学的精神と矛盾すると感じたことは一度もない。
<仏教とは要するに、経験主義的な真理の探求に他ならない>のである。
こちらに来て、「常に幸福」な状態が続いている、という人物に何人も
出会っている。これらの人たちは、一般的に考えられている幸福な人とは
異なり、現実とは何か、何が心の本質か、などを深く洞察し、他者に対する
慈悲心に満たされた状態にある人たち、と呼ぶに相応しいだろう。生まれつき
人一倍幸福を感じることのできる人は世間にたくさんいる。だが、彼らの幸福
は脆くて不完全なものである。これに対し、永続的な幸福を体得するには技術が
必要であること、内側の平静さ、今この瞬間の気付き、利他の心に根ざした愛、
といった人間に本来備わっている能力を開発するには、それなりの努力と訓練が
必要であること、などが次第にわかり始めた。深遠で静寂な観想の方法論と
英知を言葉と行動で具体的に範を示してくれる生きた見本に直に触れる、
という経験は、間違いなく充実した人生を歩むためのお膳立てができた、
といっても過言でない。「私の行動は真似せずに言葉にだけ従え」といった、
真理の探究者を失望させる、多くの教えとは一線を画す本物の教えに
出会ったのだった。 》
▼ 「意味ある偶然の一致」としても、前年の新年明けの
同月同日に、この幸福論に丁度良い回答をテーマにしていた。
<「いのち」は「わたし」の生れる前からある。
「いのち」に「わたし」がいっとき宿るのだと。
「いのち」が存在の実相で、「わたし」は頭で作り上げたフィクション。>
このことに気づくため瞑想をし、「永遠のいのち」に宿る「わたし」に
気づいた状態が幸福という。これ以上の明快な答えは見当たらない。
これを知り、〔「わたし」<「いのち」〕という発想に私も、少し近づけた。
「遺伝子は生物の体を借りて、代々、生き延びてきた」という遺伝子の科学者
のいうのが、遺伝子の「いのち」が、生物のからだ(いのち)に例えると、
少し理解できる。「わたし」が80年の人生を終えても、遺伝子という
「いのち」が生き延びていく、と思えば、死の恐怖は減る。
「いのち」−「わたし」=「永遠のわたし」 か?
「いのち」+「わたし」=「有限のわたし」 になるのか?
何か、岸本葉子と、リカールの妖術にかかったようである。
・・・・・・
5055,生と死をめぐる断想 ー6
2015年01月16日(金)
『生と死をめぐる断想 』岸本 葉子(著)
* 時代という背景
それぞれの時代背景に相応しい、医療からはみ出た民間の癒しが出てくる。
著者が、それをシンプルにまとめているが、これは大衆の生活の知恵でもある。
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01月16日(月)
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