ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5346,貧乏生活で友だちもいません 〜身の下相談
などで、多くの特集を組んでいる。また、図書館には写真集がある。AC79年に、
ナポリ湾を見下ろすベスビオ火山 が大噴火すると、南東10キロに位置した
ポンペイの町は火山灰に埋もれたが、1748年から発掘調査が行われ、それが
現在も続いている。ローマ人が創り上げた古代都市が徐々に姿を現しているが、
今でも半分も、発掘されてない。 舗装された道路、神殿、住宅、商店街などが
20Mの火山灰に、2千年の間、保存されている。人骨などは、その熱で溶けて、
それを覆って出来た空洞に石膏を流し込んだものが発見された現場近くに展示
されている。 ところが最近、ある地下室で、54人が噴火後、生埋めになって
折り重なった生々しい遺骨が発見された。そこで、彼らのDNAや、装飾品
・衣服などから新たに多くの事実が分かってきた。そこは大きな商家で、
その主人と思われる人の身の周りから金銀が。エメラルドを身につけた
男女の遺骨には、人骨が青く同化。小銭を多く持っている人は近くで商いを
していた人。妊婦は胎児の骨がお腹の辺りあったことから推察される。
噴火から火山灰がポンペイまで到達するに19時間かかったというから、
留まった人は、大金持で金銀の財産を失うのを恐れ、妊婦は身重で、商人は
店に未練があったため、等々が推察される。ポンペイには下水道が完備、
都市計画があって、商店街、大広場、神殿などあり、現代の都市にひけを
とってない。古代ローマの都市は、中世のルネサンスまで、それを凌駕した
時代は一度も無かった。その古代都市を、大噴火の20Mの火山灰が石膏
代りに、都市全体を保存し、私たちの目の前に再現し見せてくれるのだから、
奇跡である。石の文化は、後々まで残るからよい。彼らは午前中だけ働き、
あとは浴場や、劇場などで、生活を楽しんでいた。
瀬戸内海周辺は、農作物などが豊富で、物流が盛ん。それが万遍無く
市民に行き届いていたようだ。 世界は広く、深い!
・・・・・・
2004/11/29
1336, 2000年前のポンペイー5
一昨日のNHKスペシャルで「ポンペイ」を特集していた。
落書きを切り口に番組みを構成していたのが、新鮮であった。
たまたまポンペイについて書いていたので、その偶然の一致が奇妙な気分。
2000年前の生々しい人間の心が、落書きの中に出ていた。話は少し逸れるが、
エジプトのルクソール神殿の遺跡の壁にあったレリーフに,兵隊の絵があった。
同じ絵が多く描かれていたが、現地の日本人女ガイドの説明が面白い。
その兵隊うちの一人だけが、ところどころ逆向きに向いているのだ。
当時の多くの職人の一人が、命をかけて?わざっと逆向きに彫ったという。
いつの時代でも、そのような遊びがあった。それよりも、数千年の時空を
超えた男の生身の人間的なジョークを伝えているのがよい。
  ーその番組みで紹介していためポンペイのメモには
・〔私と貴方が一緒に踊ったことを憶えていて、訪ねてきてくれてラブレター
 を置いていってくれた〕返事が壁に書かれていた。
・隣近所のお知らせー人々は回覧板かわりに壁を使ってコミュニケーション
 をしていた。
・現在の通りの商店看板と殆ど同じものが、当時のポンペイの街にもあった。
・ポンペイの街には400軒の店があった。 24時間営業の居酒屋があった。
 その居酒屋の奥の部屋でゲームと会話をしている絵が残されていた。
・食料品店の壁には、掛け売りのメモが書きこまれていた。 
 家計簿的なメモもあった。
・果物屋には桃が売られていたメモがあった。  等々である。
 メモから、当時の変化がうかがい知ることが出来る。当時のローマ帝国の
 政策の大きなものとして、パンと、サーカス(街には必ず円形劇場が
 つくられていた)を庶民に与えることであった。AD・54に17歳で皇帝に
 なったネロが、その政策を更にエスカレートさせていった。
 そのためか、贅沢の限りをつくす考えが一般にまで浸透を始めていた。
 その頃のメモに〔今を楽しめ〕というのがあった。
 それがエスカレートしたのかタブーのメモもあった。
・下品の言葉を慎むように

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11月03日(火)
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