ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5339,構造主義とポスト構造主義 〜②
結局、水商売の世界へ。職場のホステスと結婚したが、カミさんが客と浮気、
離婚。女の子がいたが、裁判の結果、私が引き取り、母親ともに育て上げた。
子供は巣立ち、今は、母と暮らしているが、生活で手一杯。人生何も良いことは
なかった・・」と、数分で彼の人生を物語風に語った。「一限の客に、
よく話しますね!」というと、「ここまでくれば、恥も何もない・・
実は、お客さんを乗せたことがあり、身の上話をしたことがあったんで」と。
タクシーで、必ず景気とか、収入とか、生活状況を何気なく聞く習慣がある。
以前、何か聞いたのだろうが、色いろな人生がある。人生は一度、歯車が
狂うと、孫子何代、その影響を受けてしまう。順調時から、「まさか」の坂に
備え(シェルター)をつくっておくべきは、身をもって言えること。
助けてくれるのは自分だけ! 「自分だけは、自分の会社だけは、大丈夫!」と、
つい思いがちだが・・ 地球規模から見れば、グローバル化が世界を激変
させている中、各人の「そして、人生がつづく」。 情報化、グローバル化、
まさかの事態(ブラック・スワン)、弱肉強食などがキーワードになる。
特に、グローバル化は、島国の日本にとっては大きなマイナスをもたらす。
それぞれの『私』も、思い込みでしかないが・・
・・・・・・
4232,雑談ネタ、酒の肴ネタ ー7
2012年10月27日(土) ー「ルーツ大全」インフォペディア編より
* 食べると危険 ートマトはもともと観賞用の植物
≪ 生で食べてもおいしいし、ソースやケチャップの材料にもなるトマトだが、
じつはヨーロッパでは長いあいだ、トマトは観嘗用や薬用としてしか利用
されていなかった。トマトの原産地は中南米。メキシコでは「トマトル」と
いう名で煮込み料理などに使われていた一時代を経て16〜17世紀に欧州に
もたらされた。当時のトマトは品種改良も進んでおらず、甘味もなく美味しく
なかたようだ。トマトが食べられるようになったのは、イタリアの貧しい農民
が、二世紀を経た後に、飢え死にをするぐらいならと食べたのがキッカケ。≫
▼ これも多くの野菜同様に南米から持ち込まれ、当初は観賞用で、
「黄金のリンゴ」「愛のリンゴ」と呼ばれた。
* 冷使用人の嫌がらせが功を奏した? ー清酒誕生の裏話
≪ 清く澄んだその見た目から、日本酒は清酒とも呼ばれる。
日本酒が現在のような透明に澄んだ酒に変貌するのは、江戸時代初期のこと。
じつはそれまでの日本酒は濁り酒で、今でいうどぶろくだった。その濁り酒
から澄んだ透明の酒ができたのは、まったくの偶然からだった。
江戸時代初期、兵庫県にあたる摂津の国に、鴻池新六という酒造業者がいた。
ある時、新六が素行の悪い使用人を叱ったところ、その男は蔵の酒桶に灰汁を
投じて逃げてしまった。主人を困らせようというもの。ところが思わぬ効果を
挙げた。翌朝になって新六が桶の中を見ると、今まで白く濁っていた酒が清く
澄みわたり、味も香りも驚くほど芳醇なものに変わっていたのだ。
まさに、偶然の産物だった。使用人の恵業かなければこの発見はなかった。
新六は、この酒を江戸まで運んで売ることを思いつく。運び賃をはじめとする
流通の経費はかかったが、清酒を求め大名の間で、奪い合いになるほど大評判
になり、売れた。新六は江戸と摂津の国を何ども往復し莫大の利益をあげると、
大阪に出て商売を広げた。こうして鴻池家は大阪を代表する豪商になって
いくのである。≫
▼ 大阪の鴻池が、こういう経緯で大財閥をつくったとは知らなかったが、
面白いものである。ただ、それを大々的に売り出した、新六の才覚が
あったことも大きい。
・・・・・
3867, 三〜四年前の為替相場
2011年10月27日(木)
三年前の2008年10月25日(土)
≪随想日記のテーマ「閑話小題ー毎日が薄氷の上」≫
が為替相場について書いていた。
≪ 9月の半ばから恐慌前夜の重い雰囲気で、日経平均も三ヶ月で40%も
暴落、何と7600円まで下がった。ドルが95円、ユーロが120円。
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10月27日(火)
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