ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5267,忘れていた「ホッファー」
ということだったのだ。ミス・フィットは白人とか黒人とか、富裕者とか賃金
労働者とはべつに、ひとつの階層をつくっていた。それがアメリカという社会。
今でいうフリーターである。
・その後、農業労働に近い仕事を転々としながら、また読書に没入していった。
あるとき砂金掘りに出掛けるときにモンテーニュを鞄の中に持って行ったのが、
ホッファーを変えた。「モンテーニュは自分のことを書いている!」と思えた。
・自分の活動に方針をもったホッファーは軍隊に入ろうとするが、ヘルニアで
失格、その後はサンフランシスコで沖仲仕の仕事をしつづける。
・「家系はみな短命で、五十歳以上生きた者は一人もいない。
将来のことなんか心配することないのよ、エリック。
お前の寿命は四十歳までなんだから」
養育役のマーサのこの言葉は私の奥深くに刻み込まれ、そのおかげで季節
労働者をしていたときも、あれこれ先々のことを思い悩まずにすんだ。
ーーー
老年になるまで、ミス・フィットと沖仲士を続け、決して高ぶらず底辺の
人たちから学び続けた哲人の姿に全米の人たちから激賞を受けた。
その言葉の一言一言が重い。 − つづく
・・・・・・
2333, ホッファー −2
2007年08月23日(木)
*ヾ(´∀`o)+。才ノヽ…YΘ!
この特異な哲人ホッファーの存在が、今日のように我々に知られるに至った
のは、マーガレット・アンダーソンという「コモン・グラウンド」編集長。
「たった一人、彼女が東海岸で自分の原稿を待っているのだと思えることが、
自分の思索を持続させた」と、ホッファーは書いている。
世に出た著書は、好評だったが、爆発的に売れたわけではない。
あくまでも彼は本の“著者”にすぎない状態だった。
1964年にカリフォルニア大学のバークレー校で週に一度の学生たちとの
講義も担当するようになったときも話題をよんだわけではなかった。
ホッファーのような変わった人物を講師にするのは、バークレーのやり方。
しかし、ホッファーはひとつの感慨をもつ。「人にはこのように、世界の
どこかでそれを待っているところが、少なくとも一カ所はあるものなのだ」
ということを。
以下は、ある本からの抜粋である。
−−
ホッファーが人気をもつきっかけは、テレビであった。
1967年、エリック・セヴァリードとの対談がCBSで放映され、大反響になった。
それから一年に一度、ホッファーはテレビ対談に登場する。
かれ自身はつねに目立たない存在を望んだが、どんな評価も名声もホッファー
の生活を豊かにすることも、その精神を危機から脱出させることもなかった。
社会や世間のほうがホッファーのような“例外者”を必要とした。
こういうホッファー・フィーバーのなかで、彼はまったく変わらなかった。
沖仲仕をやめて著述に専念するようになるのは六十五歳をすぎてから。
八十一歳で死ぬ(1983)まで、本を書きつづけ主要な著作は十一冊をかぞえる。
うち六冊は日本でも邦訳が出たが、現在も入手可能なものは一冊しかない。
これほど数奇な人生があろうかと思わせるほど波乱に富んでいるが、
これ以上に面白いのが、彼がいろんなところで出会った、
数々の特異な社会的不適応者たちの語る自分の人生である。
この自伝には、そのような忘れがたい人々との忘れがたい出会いがつまってる。
その一つ一つが、まるで短篇小説以上の仕上がりになっている。こういった
出会いのすべてが彼の哲学的思索のナマの素材になっているのである。
自分自身がそのような不適応者の一人であり、その不適応者にまじって
生きつづける中で、「人間社会における不適応者の特異な役割」という、
彼の生涯を通じての思索のテーマ発見する。
「人間の独自性とは何か」ということを考えつめていくうちに、
「人間という種においては、他の生物とは対照的に弱者が生き残るだけでなく、
時として強者に勝利する」ということと思いあたる。つまり、「弱者が演じる
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08月16日(日)
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