ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5793,「自分」から自由になる沈黙入門 −2
幸福は聖人の喜びである」と書いている。中には復讐や拷問を楽しむ人間
もいる。同様に、競争相手の破滅に有頂天になるビジネスマンもいれば、
盗品を肴に祝杯を傾ける盗賊もいるし、闘牛の観客は牛の死を見て狂喜する。
そのどれもが束の間の快楽に過ぎず、時にはそれが病的な高揚状態をもたらす。
 これらも幸福とはまったく無縁である。・・・(略)
快楽とは異なり、心が純粋に生気に溢れた状態は、たとえ状況に影響
されることがあっても、支配されることはなく、意気消沈することはない。
持続性があり、経験を積むうちに鍛えられる。時間の経過でそれは第二の
天性と呼ばれ習慣として体得され、達成感という副産物をもたらしてくれる。
 本物の幸福は、活動とは無縁である。それは人間の在り様、すなわち、
心がどのように機能するかについて正しい理解に到達することで、感情の
バランスが見事にとれている状態を指す。 普通の快楽は、快適な対象と
接したときに生じるが、その接触がなくなると快楽は消滅する。
 反対に、永続的な安楽は、内なる本質と完全に調和している期間中ずっと
持続する。 安楽は、自己への執着を超えて、内側から発散してくる平安な
無我の状態を一つの側面とする。自分とうまく調和できている人は、
家族、隣人、場合によっては社会全体とも良好な関係を維持するために
自発的に貢献しようとする。 要するに、快楽と幸福は直接的な関係がない。
だからといって快適な感覚を求めてはならないということはない。
 壮大な景色、海水浴、バラの香りの楽しみをすべて止めなければならない
理由はない。ただ、心の平静さが損なわれ、満足感を得ることに執着し、
快楽の妨げとなる何事をも毛嫌いするようになると、快楽は障害となる。
 快楽は、幸福どは本質的に異なるとはいえ敵ではない。ただ問題になるのは、
快楽がどのように経験されるかである。所有に取りつかれるとき、あるいは、
心の自由が妨げられるとき、食欲と依存症の兆候が頭をもたげ、幸福が妨害
される。一方、心地よい瞬間とか、心が平静で自由な状態で経験される快楽は、
幸福に影を投げかけることはなく、かえって幸福を引き立てることになる。≫
▼ 40歳半ば、母親の軽い痴呆症や、病など家庭内問題が山積し、兎に角、
目先のストレスを解消する必要性があった。 そこで見つけ出したのが、
秘・異郷ツアー。未知への旅の不安は並大抵ではないが、大自然との邂逅が、
ストレスへの即効薬に気づいた。それまで、年一回のツアーが、2〜3回に
なっていた。極限の日々が、想像を絶する大自然や、異文化、異文明の出会い
に導いてくれた。あと講釈としても、「この大自然と出会うため、この日々
のストレスがある」と、思わせるほど強烈なインパクトがあった。
 それらの邂逅での一瞬の至高体験から湧き出て蓄積された『安楽の池』が、
心の奥に静かに佇んいるから、何ごとにも平然としていられる。 
『快楽の池』は、あるか? 〜以下が偶然だが、脈絡として続いていく。
『快楽の池』『安楽の池』『地獄の池』の管理のため、人は神をつくった?
・・・・・・
5063,河合隼雄 ー私が語り伝えたかったこと 〜B
2015年01月24日(土)
            ー「私が語り伝えたかったこと」河合隼雄著ー
   * 日本人と宗教
以下の内容は、巷の日本人の宗教観をズバリ言い当てている。
これに世間論(世間=神様)を混ぜれば日本人論にもなる。人間は、地勢と、
人種と、貧富などの社会的立場で細かく差別されている。更に最期は死という
避けることが出来ない最大の不幸?が待っている。で、神という共同幻想を
つくり上げ、その幻覚で今を生きようとする。しかし、日本では、互い監視の
世間様が神の役割を果たしている。 ーその辺りを抜粋ー
≪ 人間が生きてゆく上で、何らかの宗教が必要であり、それは経典や儀礼など
 を通じて教えこまれると世界の多くの人が信じているなかで、日本人はよほど
特異なのである。このことを知らずに、終戦後に渡米した日本のインテリたちが、

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01月24日(火)
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