ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5715,閑話小題 〜2016/11/07
なるんだよ。そういうつまらなさは、若い人たちを見ていていつも感じる。
例えば、僕には君と同じような年齢の娘がいるのだけど、娘の友達が5人出て
きても、その5人が全然個性の違う友達ではなくて「娘の友達A、B、C、D、E」
みたいなところがある。僕らの時代はね、例えば5人友達がいたとすると、
5人ともまず家の豊かさが違う。それも、大幅に違う。だから価値観が違う。
世界観が違う。それが、おもしろかった。
・太朗:今はそこまでの違いは生まれにくいかもしれません。
・次郎:この間、おたくの編集部に行っただろう。あのとき壁にザーッと
 何十枚もポスターが張ってあったな。なんとかってアイドルの……。
 あのコたちもみんな同じ顔に見えたよ。
・太郎:AKB銘柄ですね。最初は、皆さんそうおっしゃいます。
・次郎:だいたい、どこがいいんだよ。僕はさっぱりわからないのだが。
・太郎:身近な感じがするのが、一番の要因ではないでしょうか。
・次郎:適度にブスということか。
・太郎:「クラスで5、6番目にかわいい女のコたち」というのがコンセプト。
  ふ〜ん、そういうコンセプトはわかる気がするな。 ・・・≫
▼「彼女らが何で?」と思っていたが、クラスで5,6番目狙いとは、知らなんだ。
 誰でも手が届きそうな、といって妥協したくない、微妙なところ狙いなら、
男女かかわらず、客層は広くなる。逆にいえば、1〜2番は、意外と孤独で、
孤立している。だから、心の距離を置いた?褒め言葉に弱い。
遊び人は、それを知っているから常に美人に恵まれる。ただ憧れていると
伝えることは、簡単。 だから、どうした? どうもしません!
格差云々という前に、努力をしなくては。逆に美人ほど、努力をしている
から、その差は開く一方。 でも、やはり世の中、不平等に出来ている。
・・・・・・
4985,暴走する世間 −2
2014年11月07日(金)
      「暴走する「世間」―世間のオキテを解析する」佐藤 直樹 (著)
  ー著者は、安部謹也の「世間とは何か」を紹介している。
《 「社会」と「世間」について。「社会(society)」という言葉は、近代化
 の時代に西欧から輸入し、翻訳されたものである。神と個別の契約を結んだ
「個人」たちが営む集団組織のことを言う。西洋人たちは長い時間をかけて、
こうした「社会」を作り上げてきた。維新の立役者たちは西欧文明に追いつこう
と、様々な学問を持ち帰ってきた中で、日本にも「社会」という言葉が輸入され、
幅を利かすようになった。 日本には「社会」が無かったにもかかわらず。
そこにあるのは「世間」である。「世間は社会ではなく、自分が加わっている
比較的小さな人間関係の環」である。日本人にとっては、個人がどの「世間」
に加わっているかが重要であって、それによって、相手との人間関係が決まって
くる。「世間」はある時は強力な保護者になってくれるかもしれないが、一歩
間違えば、個人に対して没個性を強要する権威主義にもなる。本書は、こうした
関係の中で自己を形成せざるを得ない日本の個人についての論考である。 》
▼ 「世間を全世界と勘違いしている人たち」に同調したくないため、
 アウトサイダーのスタンスを取り続けてきた。幸いに装置産業は近隣社会と
接触が最小ですむ好都合の事業でもあった。以前の「世間」のテーマで取上げた、
藤沢周平の『海鳴り』の一節で、世間の中で生きているある商人の世間に対する
気持を正直に書いてあったが、世間の有様を鋭く観察するものと感心したもの。 
〜その一節から〜
< たしかに世間には善意の人もいれば、悪意の人もいた。世間は時には悪意
 をむき出しに襲いかかってきたが、稀には救いの手を差しのべても来た。
渡る世間は鬼ばかりではなく、世間は善意と悪意の巨大な混合物だった。
だが善意の人も、一たん利害が対立すると手のひらを返したように悪意に満ちた
中傷をばら撒いたりすることもめずらしくなかった。つまり、と新兵衛は
そのころ思ったものだ。無償の善意などというものを世間に期待するのは

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11月07日(月)
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