ID:54909
堀井On-Line
by horii86
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■5694,閑話小題 〜近くの従兄の通夜で
ためのひとつの前提であり、いびつな原理だと思います。個人の自由が目標
のようにいわれるのは、アングロサクソンの世界観であって、古代の人間や侍の
生き方を振り返ってみれば、そこに個人はありません。個人は主人に捧げる
もので、そもそも個人主義を本当にいい出したら、誰も戦争に行きませんから。≫
▼ <ベルクソンによると、「純粋持続こそが自由の源泉である。通常、自由と
いえば、選択の自由を意味する。 たとえば、ひとつの道を進んでいると、
その先が二つに枝分かれしている。その分岐点において、どちらかの道を進む
か自分の意志に基づいて選択できる。 そこに自由があるとされる。しかし、
ベルクソンにいわせれば、そのような分岐路を思い浮かべること自体が、
空間化された時間による発想であり、生命の自由な持続に即したものではない。
生命にとっての未来というのは、分岐路のようにあらかじめ存在するものでは
なく、現在において不断かつ連続的に創造されるものであるからだ。
したがって、自由とはこの純粋持続への帰一であり、その発現としての
純粋自我による行為」という>。
感動、感激、感謝の最たる感情は、つかの間だが、その積み重ねが人生を
深め、豊かにしてくれる。この最たる(純粋)感情の蓄積が、純粋持続への
帰一に向かうことになる。14年以上続けてきた、早朝の、この文章書きも、
早朝の自転車散歩の習慣も、「純粋持続の帰一であり、発現としての純粋自我
による行為」になる。その結果が、自由なソリストとしての(歪な?)私がある。
・・・・・・
4964,閑話小題 ーオ〜〜
2014年10月17日(金)
* オ〜〜
驚き、感動の時の言葉である。人生の豊かさは感動の質量のトータルで
決まるといってよい。一瞬、「アッ」と息を呑み、それを吐く時に出るのが
「オ〜〜」。宇宙からの音が「オオ〜ム」というが、これに関係しているかも。
以前に旅行をした時、ベテラン添乗員が絶景に差し掛かった時に、先導をして
「オオ〜〜」と言い、その後、全員に合唱させて笑いを取っていた。
それを何度か繰り返しているうちに、全員の共同感動の合唱になって、
これが感動を大きく振幅させてていた。
ーところで感動詞をネット辞書で調べると、
☆『話し手の感動を表す「ああ」「おお」の類をはじめ、呼びかけを表す
「おい」「もしもし」の類 や、応答を表す「はい」「いいえ」の類も、
文法的性質が同じなので、国文法ではこれに 含まれる。』
☆『感動、応答、呼び掛けを表し、活用がなく、単独で文になり得る 語である。
主語、述語、修飾語になることも他の語に修飾されることもない。』とある。
☆ 英語で 感動詞は
Gerat! すごい! Awesome! すごい! Wow! わぁすごい!
Terrific! 最高! Cool! かっこいい! Way to go! その調子!
Right on! バッチリ! Good for her(him)! よくやった!
YEAH! やったー! Yee ha! やったー! Alright! やったー!
YES! よっしゃ! Goody!! すごーい!!わーい! Whoopee ワーッ!
Rah フレー!万歳! Hooray 万歳!やったー!
Zowie ウワー、ヒャー(大きな喜び) になる。
ー以上だが、それまでは、「ウワ〜(凄い)!」「何(じゃ)これ!」
「アア〜(凄い)」だったが、今度は、「オ〜〜」・・ 「Bravo」もいいが!
感動、感激、歓喜の質量が、その人そのもの! オ〜〜
・・・・・・
4597, そして、人生はつづく ー6 (そして、ゲームはつづく)
2013年10月17日(木)
* そして、ゲームはつづく
川本三郎著の『そして、人生はつづく』にしろ、朝日新聞の「耕論」
小田嶋隆のコラム『生き直すために』にしろ、自由業の物書が、連合いの死や、
断酒による人間関係の喪失で、孤立した生活に入りざるを得なくなった中で、
如何に、耐えていくか。そこで「一人暮しになって静かな一日を送る困難と、
それゆえ幸福を知るようになった」心情を書き連ねる。
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10月17日(月)
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