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by DIARY
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■今月の参禅−33
大本山總持寺では六月に伝光会攝心(でんこうえせっしん)があります。
この期間修行僧は僧堂に籠もり、坐禅三昧の行(ぎょう)をし食事もすべて僧堂でいただきます。
これらの食事をまかなう寮舎を典座寮といい、寮員はすべて修行僧で、この期間は彼らは僧堂に籠もらず、ほかの修行僧たちが安心して行に励めるよう、心を込めて食事を作ります。
曹洞宗では、修行の中で食事をことさら大切にします。
他の命をいただき、自分の命に代える食事は、仏道を完遂するための尊い行なのだと考えます。
また、食事を大切にする理由は、道元禅師の中国での体験にも由来します。
道元禅師は二十四歳のとき、正しい禅の教えをもとめて、中国に渡りました。
あるとき、修行に入った天童寺の庭で、腰が深く曲がった老典座がじりじりと強い日差しの照りつける中、汗をかきながらやっとの思いで、だしの材料となる椎茸を干している光景を目にしました。
典座というと、料理を作る係のトップで、禅宗では寺の重役にあたります。
道元禅師はその老僧に近づき年を尋ねました。
老僧は六十八歳と答えました。
当時ではかなりの高齢になります。
禅師は問を続けます。
「(老師のような、高齢で尊い立場のお方が、どうして、苦労して椎茸を干しているのですか。そのような雑用であれば)部下の若い僧に任しておけばいいのではないかと思いますが」―それに対して、老典座は、「他はこれ吾れにあらず」(これは私の行なのだから、他人がやっては意味がない)と返したのです。
禅師はさらに問を続けます。
「(少し時間をおけば日差しも柔らかくなるでしょうに)老師は、どうして、今のように厳しい暑さの時に椎茸を干しておられるのですか、」それに対して老典座は、「さらに何の時をか待たん」(今をおいて、ふさわしいときというのはあり得ない)と答えたのでした。
この二つのやりとりを通して、道元禅師は修行といいものの本質に気がつかれたのでした。
禅師は「仏道とは、何かを成し遂げるということではない、だからどんな些細なことでも、自分の行であり他人任せにしてはいけない。また、修行をしているということは、今ここで最善を尽くすことであって、状況を見て後回しにするようなものではない」と気づかれたのだと私は理解しました。
道元禅師は、本当の禅を求めて中国にやってきました。
もしかしたら、この老典座に会うまでは、本当の禅は坐禅堂の中だけのものだと考えていられたのかもしれません。
しかし、禅師は中国での経験で、それほど重要と思っていなかった食事を司る修行僧から、禅修行の何たるかを多く学んでおられます。
禅師は帰国後「典座教訓(てんぞきょうくん)」を撰述し、食事や料理の心得や修行の何たるかを説かれました。
以来今日まで食事は、曹洞宗では大切な行と位置づけられています。
今、成果主義の時代といわれています。
しかし、本当に大切なことは、成果を上げることではなく、これは自分の仕事であると納得し、些細なことにも喜びを持って毎日を過ごすことではないでしょうか。
いつも人に入れてもらっているお茶でも、たまには自分から入れてさしあげてみてはいかがでしょうか。
今まで気づかなかった発見があるかもしれません。
06月17日(木)
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