ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File088】カチンの$Xのエニ′Fさん・・・【ネタバレ警報/前編】
1943年4月ソ連領内に侵攻した独軍は、モスクワとミンスクの中間に近い主要都市スモレンスクを占領しました。その郊外にあるカチン≠ニいう農村近くの森で野営していた独軍の一部隊がとんでもないもの≠発見します・・・それは地中に埋められた大量の腐乱した死体・・・多くは軍服のような服を着用しており、後ろ手に縛られ後頭部を銃で撃たれていました。遺品の中から発見された多くの手帳や身分証明などから、これらがポーランド軍の将校や政治家の遺体であることが判明(因みにマスコミ用語では身元が不明な場合を死体$g元が明らかな場合を遺体≠ニいう・・・一般に男性は死体¥乱ォは遺体≠ニいうのは大きな誤り・・・何じゃそりゃ)独宣伝相ゲッペルスは、これらの遺体が1939年9月以降ポーランドのソ連軍占領地域で行方不明となったポーランド軍将校や政治家であり、これらの虐殺を行ったのはスターリンの指示によるソ連秘密警察であると世界中に発表・・・国際社会においてソ連を盛大に非難しました。ロンドンにあった亡命ポーランド政府もこの事件を知り、直ちに国際赤十字に対し調査を依頼・・・独軍の協力の下にカチンの森で遺体発掘が行われました・・・発掘された遺体総数4,143名(この数にも複数の説があり3,000名説、4,000名説、4,500名説から5,000名説と分かれている。またソ連占領下のポーランドで行方不明になったポーランド軍将校・政治家の総数も15,000名説、25,700名説など複数ある)・・・国際赤十字の調査で、発掘された遺体がポーランド軍の将校や政治家である事は証明されたが、その殺害実行犯が誰であるか、という明確な証拠は発見出来ませんでした(遺品の調査により、殺害が行われたのが1940年初頭である事は明確となった。遺体が殺害直後にカチンの森の中に埋められたと仮定すれば、その時点ではスモレンスク付近は未だソ連の勢力圏内であった事はハッキリしている)二次戦中はナチスドイツとソ連共産党双方が、互いに相手を犯人として主張し続けたが、戦後行われたニュルンベルク軍事裁判ではユダヤ人虐殺=ホロコースト≠ノ次ぐ大量虐殺として審理され、結局は戦勝国側であるソ連政府の報告のまま、ナチスドイツの犯行とされた。しかしこの判決には、当初から疑問の声が多く、1949年に米国下院内に「カチン虐殺調査委員会」が設置され、1951〜52年に行われた調査の結果、虐殺の実行犯はソ連政府であると断定されましたが、朝鮮戦争に続く冷戦状況下においては、それ以上の真相は闇の奥に埋もれたままでした。ところが・・・事態は急転します。事件から50年後の1990年4月13日ソ連共産党書記長ゴルバチョフが、全世界に対し「1940年初頭に発生したポーランド人将校の大量殺害事件=カチンの森の虐殺は、ポーランドの共産化を進める為、当時のソ連共産党書記長スターリンが反動的ポーランド軍将校の処刑を命じ、内務人民委員(秘密警察長官)ベリヤの1940年3月5日付の極秘命令によって実行された」と発表、正式にポーランド政府・国民に対して謝罪しました。その後発表された「ベリヤ〜スターリンに仕えた死刑執行人・・・ある出世主義者の末路」(ウラジーミル・F・ネクラーソフ編)と言う本の中でも、明確にベリアと秘密警察の虐殺への関与が明記されています。遥か以前、全くの偶然(なんかコレばっか・・・だな)・・・甚だ不謹慎な好奇心からレンタルしたビデオ『スウィート・ムービー』に収録されていた白黒の記録フィルムは、この『カチンの森の遺体発掘映像』だった訳です。こうしてまた20世紀の歴史の謎≠フひとつが、白日の下に明らかになったはず・・・した?

【そして再び謎は深まる・・・のか?】

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05月24日(土)
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