ID:47402
ATFの戦争映画観戦記
by ATF
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■【File088】カチンの$Xのエニ′Fさん・・・【ネタバレ警報/前編】
第一次大戦後に成立したポーランド共和国は、旧ドイツ帝国領と旧ロシア帝国領(ウクライナ地方)を領国内に取り込む事となり、特にダンチヒ(現グタニスク)を含む地域は、ドイツ本国と東プロセイン(現カリーニングラード)地域を分断しダンチヒ回廊≠ニ呼ばれる戦略上の要衝となりました。1934年ドイツとポーランドは不可侵条約を締結、1938年10月独外相リッベントロップは、ポーランド外相ユーゼフ・ベックにダンチヒ返還を要求しましたが、ポーランドは英仏の後ろ盾を得て、独の要求を拒否しました。1939年4月ヒトラーはポーランドとの不可侵条約を破棄。同年5月19日フランスはポーランドとの間に軍事協定を締結。英仏はソ連もポーランドの防衛協定に引き込もうと画策するも失敗。実はソ連は、ヒトラーが政権を獲得する以前の1922年4月に既にドイツと国交を回復し、第一次大戦の賠償権を放棄、互いに軍事面交流を行っていました。ヴェルサイユ条約によって軍備を制限されていた独軍が、ソ連領内で戦車や航空機の訓練を行っていたのは皆さんもご存知の通り・・・反面ソ連は独の進んだ軍事技術を学んでいたのです。ナチスドイツが政権を奪取し、独国内の共産党勢力を弾圧するに至って、両国間での軍事面交流は中止されました。ポーランド侵攻を目前にして、ヒトラーはチェコ併合時と同じくポーランドに侵攻しても英仏の介入は無い・・・と考えていました。しかしソ連の指導者スターリンの腹の内が読めない・・・過去を顧みてもポーランドに手を出した場合、ソ連が黙っているはずは無い。でも今ソ連とも事を構えるだけの余力は独軍には無い・・・。そこでヒトラーは、外相リッペントロップに親書を持たせモスクワに派遣しました。実はこの時、ソ連軍は1930年代後半から行われた軍幹部の大粛清によって指揮系統がボロボロで、独軍と事を構える力など全然無かったのですが、流石は元祖鉄のカーテン≠フお国柄・・・その事実は、ヒトラーの耳には届いていませんでした。またスターリンは英仏を全く信用していなかったので、ヒトラーからの親書は、将に渡りに舟≠セった訳です。1939年8月24日モスクワにおいて独ソ不可侵条約が調印されました・・・以後10年間両国は戦争しません、というもの。この条約調印は世界各国に大きな衝撃を与えました。と言うのもスターリンとヒトラーは互いに犬猿の仲≠ニ思われていたからなんですが、実はこの不可侵条約には裏の顔(後に暴露される秘密追加議定書)があって、両国の欧州での勢力圏(ポーランドのブレスト・リトフスク以東、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国及びフィンランドをソ連の勢力下に置く)を勝手に取り決めていたのでした。これによって独軍によるポーランド侵攻後の国土分割のシナリオは出来上がっていた訳・・・。1939年9月1日未明、独軍は遂にポーランドに侵攻しました・・・前日の8月31日ドイツ領内ウライウィツクのラジオ放送局が、国境侵犯したポーランド軍兵士に襲撃された事に対する報復措置という名目で・・・しかし今では、この事件は完全にドイツ側の自作自演の謀略と判明しています。その後、独軍はハインツ・グーデリアン将軍によって新たに考案された戦略思想を具体化した戦法・・・機甲兵力と航空兵力の共同作戦電撃戦≠ノよって破竹の進撃を続け、未だ騎兵戦力が主力だったポーランド軍を各地で撃破。9月17日独ソ間の秘密議定書に基づきソ連軍がポーランドとの国境を越え侵攻(終戦直前の満州とソックリだ)・・・事情を知らない独ソの第一線部隊間で一時戦闘が発生する事態も発生しました。結局英仏は独に宣戦布告するも実際に戦闘は起こらず(ポーランドを見殺しにした)9月27日ワルシャワ陥落。29日にはワルシャワ郊外の最後の抵抗拠点が降伏し、ポーランド軍の組織的抵抗は終わりました。戦闘終了後、独ソ間でポーランド分割占領が実行され、ポーランドという国家は消滅します。生き残ったポーランド軍人や政府要人の多くは英国に亡命・・・しかし、ソ連軍占領地域内でソ連軍に捕虜となったはずのポーランド軍将校や政府要人の多くが、その後ぷっつりと消息を絶った・・・のでした。

【そこで何が起こったのか・・・】

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05月24日(土)
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