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せきねしんいちの観劇&稽古日記
by せきねしんいち
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■「メゾン・ド・ヒミコ」
 宇田くんと待ち合わせして、「Four Seasons 四季」のDVDのダイジェスト版を受け取る。明後日の共立女子大のトーク用に、今回、編集をしてもらった。
 その後、「メゾン・ド・ヒミコ」を観る。舞台をご一緒した青山吉良さんに歌澤寅右衛門さん、それにうちの早瀬くんも出ているので、観なくては……と思いながら、なかなか観に行けなかった。こちらも明後日のトークで話すことになりそうなので、ようやくというかんじで映画館へ。
 映画の感想は、ひとことでいえば「びっくりした」。あ、おもいつくままに書いてしまうので、ネタバレしまくりになると思うので、まだ観てない人は覚悟して読んでください。
 こんなにゲイへのリスペクトがない映画だとは思わなかった。それは、ゲイだけじゃない、老人に対しても同様。
 どうしてこんなに柴崎コウばっかりおいしいんだろうと思って観てしまう。ゲイの老人たちは、みんな、柴崎コウの役をおいしくするためにだけいるようだ。
 青山吉良さん扮する山崎がダンスホールでかつての知り合いにばったり会って、「やっぱりオカマだったんだ」と罵倒されるのも、柴崎コウがその相手をののしるというおいしいシーンのために用意されてるようにしか思えない。
 初めて女装してダンスホールに行くにしては、衣装もメークもナチュラルすぎるんじゃないだろうか。もっともっと装うのがこの場面にはふさわしいだろうに、それじゃ「バレないから」という理由で、そうなってるように思える。
 カツラだってかぶればいいし、メークだってバッチリすればいい。ドレスだって、あの場の女王になるようなそんなゴージャスなものでいいはずだ。せっかく男性陣がドレスアップしてるんだもの、彼だって、もっとバッチリ決めていったほうが、自然じゃないだろうか。
 でも、この脚本は、そういうおいしい場面をゲイの老人たちにはくれようとしない。絶対に。柴崎コウが「ブス」という設定になってるんだから、ゴージャスな女装をしていても、かつての知り合いにバレルという展開はいくらでもありだと思うのだけれど。
 一番残念なのはドラマを成立させるために、いろんな不自然さが無理矢理「あり」になってしまっていることだ。その結果、物語のはしばしが「ちょっと待って、それってどうして?」という印象を与えるものになってしまっている。
 脳卒中で倒れたルビイが、縁が切れていた息子夫婦に引き取られる場面。MTFの手術をしているルビイのことを説明しないで引き渡す住人たちに、柴崎コウが「あんたたちのエゴには虫酸が走る」とキレる。
 これもどうかと思う。これはもう住人たちの描き方というか設定の問題なのだけれど、いくらなんでもあんまりだ。キレる柴崎コウに圧倒的に分がある。というか、そんなことなんでするんだろうという疑問が残りすぎる。「一か八かに賭けた」というのは、ややお茶目な思いつきだと思っての展開(ゲイっぽい?って思ったのか)なのかもしれないが、この場面では、ゲイの老人たちの間には、お互いに助け合うとか思いやるとかいった関係が全くないということが露呈してしまう。そして、それは、僕には、いくらなんでもありえないことのように思える。というか、あってもいいのだけれど、そこまでしないではいられない彼らの状況が描かれていないので、これもまた柴崎コウをおいしくするための手段としか見えなくなってくる。
 この映画についての先入観として考えていたのは、柴崎コウがゲイの老人たちに触れて、「何か変わっていく」話なんだろうなということだ。彼らから受け取る何かポジティブなメッセージ。それは、たとえば、おおざっぱなたとえで言えば、アフリカの大自然にふれた女性が大自然の脅威と闘いながら成長していく、そんな話。でも、そうじゃなかった。
 この映画では、ゲイの老人たちの存在や行動は、決してリスペクトされない。同情はされるけど、尊敬はされない。その視点は、柴崎コウのということではなく、この映画がもっているものなのだと思う。登場人物の誰にも肩入れしていないというスタンスだという理屈なのかもしれないが、ドラマの展開は大いに柴崎コウにばかり都合よく動いていることは間違いないだろう。

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10月31日(月)
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