ID:45126
あんた何様?日記
by 名塚元哉
[35286718hit]

■「拉致被害者帰国から10年」 蓮池薫さんの重い言葉
北で24年、絶望の拉致生活…蓮池薫さんが手記(読売新聞 10月16日)

北朝鮮による拉致被害者5人が帰国して15日で10年。

 その一人、蓮池薫さん(55)が北朝鮮での24年間をつづった手記
「拉致と決断」(新潮社)を17日に出版する。
絶望の中、蓮池さんを支えたのは家族の絆だった。

 蓮池さんは1978年7月、新潟県柏崎市の海岸で工作員に拉致された。
当初は、恐怖と混乱の中で「日本に帰せ」とただ叫ぶだけだった。
帰国が絶望的だと分かり、「自殺」の2文字が脳裏をかすめたこともある。

 警備隊と鉄条網で守られた山あいの「招待所」に収容され、
監視・教育役の「指導員」から反日的な映画を見せられ、
金日成(キムイルソン)主席の論文集も読まされた。

 絶望の中から一歩、前に踏み出すきっかけとなったのは80年5月の結婚だった。
相手は、一緒に拉致された祐木子さん(56)。
長女、長男も誕生し、「子供たちが生きる目的になった」と振り返る。

 将来、北で差別を受けることなく生きていけるよう、
子供にさえ「帰国した在日朝鮮人」と偽った。
子供には北の礼儀作法を厳しく教え、6歳になると約150キロ離れた寮に入れた。

 当時は多くの餓死者も出たとされる食糧難で、寮ではトウモロコシが主食だった。
蓮池さんは子供の栄養状態が心配で、夏休みなどで帰省した子供が寮に戻る際には
「1日2回、5〜6粒ずつ数えて食べろ」と煎った大豆を持たせた。

 翻訳の仕事に従事していた蓮池さんは、日本の新聞を複雑な思いで訳していた。

 普段は、拉致に関する記事などはスミ塗りにされ、隠されている。
だが、ある日偶然、検閲を免れた1枚の写真を見つけた。
97年3月の拉致被害者「家族会」結成の記事だった。髪のうすくなった父が、
自分の高校卒業アルバムの顔写真を握りしめていた。
その後ろには緊張気味に立つ母もいる。「生きていたんだ」。
20年ぶりの“再会”の切なさに、息が詰まりそうになった。

蓮池薫さん 帰国10年目の告白(NHKニュース 10月15日)

北朝鮮による拉致被害者のうち、5人が帰国して15日で10年がたちました。
その1人、蓮池薫さんがNHKのインタビューに応じ、平成14年の日朝首脳会談の2年前に、
北朝鮮当局が一時、被害者の存在を明らかにしようとする動きを見せていたことなど、
これまで語ってこなかった帰国までの経緯や拉致問題解決への思いを明かしました。

北朝鮮に拉致された蓮池さん夫妻と地村さん夫妻、
それに曽我ひとみさんの5人が、
24年ぶりに帰国してから15日で10年がたちました。
このうち、昭和53年、大学生の時に拉致された蓮池薫さんは、帰国後、大学に復学。
4年前に卒業し、現在は地元の新潟産業大学でハングルの講師をしながら翻訳も手がけています。
今週、北朝鮮での生活をつづった手記を出版することになっています。
蓮池さんは、帰国から10年の節目にNHKのインタビューに応じました。
この中で、日朝首脳会談の2年前の平成12年夏に、
北朝鮮当局が一時、拉致被害者の存在を対外的に明らかにしようとする
動きを見せていたことを初めて明らかにしました。
蓮池さんは「北朝鮮当局から『君たちの存在を認めるが、どう思うか』という話が来て、
日本の家族に知らされるならいいと思い、そう返事をした。
それ以降、その話はどこかへ行ったが、初めて変化の兆しを感じた」と話しました。

また、平成14年の日朝首脳会談の3か月前の時点では“拉致されたのではなく、
海難事故に遭い、北朝鮮に助けられた”とする
架空の筋書きを話すよう北朝鮮当局から指示されていたことを明らかにし、
「シナリオがあって、それを1個1個、頭にたたき込んで、

[5]続きを読む

10月16日(火)
[1]過去を読む
[2]未来を読む
[3]目次へ

[4]エンピツに戻る