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あんた何様?日記
by 名塚元哉
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■「怒る」と「叱る」は違う。
バラバラ殺人は発生しており、

日常に溢れてきたモラルハザード(倫理欠如)と、

メディアを賑わす極端な犯罪とを一緒にして論じてしまうのは、

強引な解釈ではないでしょうか。

 『国家の品格』の著者藤原正彦さんがテレビ出演していたのは見ました。

子供が悪いことをして何度言っても理解できず同じ間違いを犯すようであれば、

張り倒す体罰も必要だとは思いますが、子供が悪いことをしたら、

イキナリ体罰を加えるというのはあまり同意できません。

最近は、「怒る」と「叱る」の意味を混同しているような気がします。

感情的に「怒る」のと、冷静になり諭すように「叱る」のはまったく違い、

体罰は「怒る」に属していると思います。

「叱る」というのは、子供が何か間違ったことをすれば、

何故自分のしたことが間違いだったのか、その理由をしっかりと説明して、

時間をかけ理論的に反省を促す行為です。

言葉の意味を理解できない幼稚園児ぐらいまでの子供でも、

手を握り締め、子供と同じ目線になりちゃんと目を見て、

いけない理由を説明すると雰囲気で子供は理解するそうです。

感情的になって怒るということは親ならば誰でも経験したことがあると思われますが、

怒りの中にイキナリ体罰という選択肢を選んでしまえば、

今後も、感情的になって体罰に頼ってしまうことが発生します。

冷静になって叱れる人というのは、

先ず一呼吸(深呼吸)ついてから叱る行為に移るそうです。

間をおくことで自分の感情を冷静に整理出来るという理由です。

怒ると叱るの違いはここに集約されているのではないでしょうか。

買い物に行ったりすると、たまに子供を感情任せに怒っているといか

当り散らしている母親を見ることがありますが、

子供は、ただ怒られたという恐怖心が植えつけられるだけで、

何が間違いだったのかを理解できずにいるのだろうなと思います。

体罰なく育っても立派な人間に育つ人はいくらでもいます。

私の周りで「目配り気配り思いやり」が自然と出来ている尊敬できる立派な人は、

子供の頃に親から感情的に怒られた経験がないだろうなという人が

多いように感じることがあります。

何がいけないかの本質を冷静に諭すように叱られていたことで、

心の成長につながり、どういうことをやれば他者が嫌がるかを理解でき、

他者にたいしての「目配り気配り思いやり」を持て、

さりげない気配りができるようになったのではないかと思うのです。

 先週の火曜日の日記で、

>日本は“美しい国”に立て直せるどころか、
>“美しくない国”へ急速に進んでいて、
>もう手遅れなのではないかとすら感じることが多いです。

と書いたところ、子供の教育を変えないとダメだという意見を多く頂いたのですが、

これも正論ではありますが、それだけでは難しいと思います。

子供は親や社会の背中を見て育つものであり、

モラルのない親がマナーやモラルを守れと言っても、

子供は「お前が言うな。」で従わないでしょうし、

子供の目に触れる大人が、マナーやモラルを守らない人間が多いので、

そんな大人達を目の当たりしていれば子供だけが真面目に従うとは思えず、

子供に対して、いかに恥の概念(羞恥心)が無くなることは自分が生きていくうえで、

デメリット(損)のほうが大きいのだということを理解させるための教育だけで、

日本人の下降するモラルの低下をある程度の水準に立ち直らせることは、

難しいのではないでしょうか。

まずは子供の手本となる大人が、せめて外出先だけでも

「目配り気配り思いやり」を心がけるべきだと思います。



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