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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『哭声 コクソン』
『哭声 コクソン』@シネマート新宿 スクリーン1
いろいろ前後してますがこれも勢いのあるうちに。盛況でございました、謎解きものとして観てもたいへんな力があるので(後述)これからリピーターも増えるんじゃないかな。2016年、ナ・ホンジン監督作品。原題『곡성 哭聲(コクソン)』、英題『The Wailing』。
『エクソシスト』(悪魔祓い)と『震える舌』(子役がスゴい)と『インランド・エンパイア』(ダンスのカタルシス)と『沈黙』(信じたいものはどこにある?)を土俗とコミュニティで煮詰めたらエラいもんになったというか……。そう、観ているときの感覚が『沈黙』のそれととても似通っていた。次から次へと差し出されるエピソード、スリリングな展開に息を呑み、人間のものを信じる力(思い込みともいえる)にホラー味すら感じ、シーン毎に自分自身への問いかけが更新される。台詞にも出てくるように「おまえらコントでもやってんのか」という要素すらある。タイトルも対照的だ。
異文化(異教=仏教、キリスト教、シャーマニズム、アニミズム)になにを見るか。「異物」を信じるのは自分が知らないことへの好奇心、疑うのは自分が知らないことへの恐怖心。先日観た『雪女』のパンフレットにこんなことが書いてあった。ラフカディオ・ハーンが赴任した土地で「赤鬼がいるからあの地域には近づくな」という噂がひろまった。その赤鬼とはハーンのことだった。「赤鬼」は侮蔑の言葉ではなく、人知を超えた力を持つ異界からの訪問者の意も含む、と。訪問者に抱くのは歓待か、それとも排斥か。それぞれが生まれ育った土壌(環境)も深く影響してくる。思い出すのは『いなかのねずみとまちのねずみ』。
「よそ者」を演じた國村隼は、作品のテーマについて「人間の中の疑心暗鬼に根ざす“不安”や“妄想”。人は何を信じ、何を疑うのかという“問いかけ”」と仮説をたてた、と話している。「よそ者」は日本人。その人物像は何度もゆれる。悪人なのか、善人なのか、この村を滅ぼそうとしているのか、救おうとしているのか……。これは現代の韓国が感じている日本を象徴化したものなのか? とも思った。よそ者はファン・ジョンミン演じる祈祷師と対決しているようにも見えるし、同盟を結んでいるようにも見える。いくつかのヒントから、ふたりの共通点を見出すことも出来る。終盤の展開はどの時点で切ってもジ・エンドになりうるし、同時に続編が作れそうな謎も残る。思わせぶりな演出はどこ迄意図的なのだろう? 観客に解釈を委ねる作品は好きだし、それはそれで面白いけれど、何か政治的な横槍が入ってこうなったのではないといいな……なんてことも思った。
これは鏡でもあって、自分が異国、異文化、異教に対してどう思っているかがそのまま反映されている。どうやら自分もまんまと『沈黙』に絡めとられていたようだ。何を信じたい? うーむ、ナ・ホンジン監督、ひとすじなわではいかない。
演技陣でいちばん印象に残ったのは実は娘役のキム・ファニ。こどもつよいわ……ショッキングなシーンも多いなか、どういう説明や指導を受けてあの演技をしたのか知りたいほどです。撮り方もあるのだろうが、あの表情、目つきの変化の恐ろしいこと。主演のクァク・ドウォンは、ひとりの村人、こわがりの警察官、やさしい父親像をときおりユーモラスに演じており、悪役のイメージが払拭されました。や、これ迄すごい意地悪だったりヒドい役でしか観たことなかったのでね……。國村さんはプリズムのような演技を見せる。黙って理不尽な非難を聴く表情、鶏を買いにいった先で聴かせる声のトーン、バスのなかでの様子。いかようにも見える。フィジカルな負担も相当だったと思います、彼で「よそ者」を見られてよかった。
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03月12日(日)
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