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I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
by kai
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■『キャバレー』
『キャバレー』@EX THEATER ROPPONGI
国内観劇始めもミュージカル、個人的には珍しい。い〜や〜これはよかった、大好き。『ゴーゴーボーイズ ゴーゴーヘブン』もそうだったけど、松尾スズキは「不穏な時代と世界情勢に流されていくひとたち」に本当に鼻が利く。この手の作品の企画製作を続けているPARCOの姿勢ともタイミングが合った。
優れた舞台には、演出家のサインが入っている。まさに松尾さんの『キャバレー』だった。人生はキャバレー、人生は神様の罰ゲーム。大きな流れのなかで懸命にしたたかに生きるひとたち。観客は、彼らが知らない未来を知っている。
1920年代のベルリン。第一次世界大戦後の不況と好況、第二次世界大戦前夜。「興奮と陶酔と退廃の街」で生きるひとびと。感銘を受けたのは、移民であったり、バイセクシュアルであったり、「オカマでハゲ」だったり、虐げられる対象になりがちなものごとを「それがどうした」とはねつけるひとびとの強さと弱さが表明されているところだ。サリーはクリフォードの性的指向にかまわない。クリフォードは父親のわからないサリーの子供を育てようと誓う。そしてMCは、キャバレーを訪れるどんな客をも受け入れる。Willkommen、Bienvenue、Welcome。ハロー、こんにちは、アンニョンハセヨ。これらが強さ。シュナイダーはユダヤ人であるシュルツとの結婚に迷い、サリーはベルリンから離れることが出来ず、クリフォードはアメリカへ帰る。これらが弱さ。弱さには原因がある。「オカマでハゲのくせに」と言い乍ら、サリーは自分も傷ついている。夢破れた彼らのその先は。ナチスの足音は刻々と近づいている。
意匠が視覚へ訴える効果も強烈。唄うひとびとが旗をふり、懸垂幕が落ちてくる。幸福なパーティが一瞬にして闇に覆われるような、一幕ラストの演出は恐ろしさに震えがきた。あの“マーク”だけで恐怖を想起させる“デザイン”の威力たるや……しかし『エッグ』で「731」の数字の意味を知っているひとと知らないひとでは衝撃の度合いが違ったように、今後あのマークの歴史的背景を知らないひとが増えていくのかもしれない。実際そうである事例が近年ぽつぽつと表出している。そうならないように、今は知らなくてものちに関心を持てるように、作品は上演され続ける。
松尾さんの描き方はとても独特で、誤解を呼びやすい。差別はある。その差別のなかでどう生きるかを、ひたすら見る。差別する側の心理、差別される側の卑屈、そのバランスを緻密な構成で描く。声の大きいひとが作品の一部分だけを切りとり糾弾すればひとたまりもない危うさがある。しかし間違いなく、そこにいる強く/弱く生きるひとたちのなかに自分がいる。ミラーボールの光のなかで唄い、踊り、笑う。どんなつらく苦しい出来事も、ひとときの間忘れさせる。それがキャバレーでありエンタテイメントだ。それを見せてくれる。
それにしても絶妙の座組みだった。石丸幹二のMCドンズバで素晴らしかった……歌にダンスにSax演奏と大車輪の活躍。ときも場所も選ばずあらゆる場面に現れ、登場人物たちのそばにいる。クリフォードとサリーの部屋に現れてはふたりの行く末を見守り、クリフォードがベルリンを去る列車のなかにも現れる。一瞬、彼もベルリンを去ってほしいと願う。しかしそうはならないだろう。彼の人生はキャバレーと、ベルリンとともにある。猥雑なのに品がある、完全無欠に見えて徹底的に欠けている。ミュージカルマナーをエロスと笑いに馴染ませる見事なMCでした。好きな台詞は「サリー! まかないできたよ!」。私もMCの作ったまかない食べたいわ。
そしてMCに寄り添うように、同じくどこにでも現れる「男」を演じた片岡正二郎。あらゆる楽器を演奏するマルチプレイヤーぶり、成程オンシアター自由劇場の方でしたか! MCと男の存在は、入れ子構造になっているストーリーを、より客席に引き寄せた。
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01月21日(土)
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