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by kai
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■『CRESSIDA クレシダ』
『CRESSIDA クレシダ』@シアタートラム

めっちゃよかった……思い入れと、観たいものが観られたといううれしさと、こんなものが観られるとはという驚きと。芸能の継承、滅びる肉体、繋がっていく魂。性別、世代、才能の価格。現時点での今年のベストワン。ニコラス・ライト作、森新太郎演出、芦沢みどり翻訳。

1630年代。劇団が男優のみによって構成され、女性役は少年が演じていた時代のロンドン。声変わりをし、体格が成人男性に近づいたかつての少年たちはセカンドキャリアへの道を歩む。大人の男性役、演技指導者、スタッフ、制作者。観客の喝采を思い出に、いくばくかの苦さを抱えて。一方、現役で舞台に立つ少年俳優たちは不安を感じている。近い将来、少年らしさを失ったら、どうすればいいのだろう? そこへひとりの少年がやってくる。美しい男性に憧れ、女性の仕草や声色、身にまとうものが自分にぴったりだと確信している少年が。

実在した登場人物たちがバックステージでどうすごしていたか。どんな思いを抱え舞台に立っていたか、あるいは舞台を降りたか。劇作家は想像力の羽根を拡げ、彼らの光と影をすくいとる。宣美や作品紹介から、観る前は徹頭徹尾シリアスなものだと思っていた。ところが舞台に載ったそれは、滑稽で少し物哀しい、人生賛歌ともいえるものだった。そして、演劇への圧倒的な愛情と敬意。

少年俳優たちは時代とともに忘れ去られていく。名前が残る者はごくわずか。その功績も後世にはあまり伝わらない。しかし彼らの力量は相当のものであった筈だ。シェイクスピア作品に登場する女性たち――抑圧された環境で過ごし、機知に富んだ言葉を吐露し、激しい感情をもって行動する。それらを表現し、観客を魅了する。年端のいかない少年たちがどれ程の訓練を受けていたかは想像に難くない。そのうえ彼らは親に捨てられたり、売られてきたような境遇だ。居場所を失わないために、食いっぱぐれることなく生きるために、彼らは懸命になる。その努力の方法はさまざまだ。発声を学ぶ。表現力を磨く。パトロンを探す。そうして彼らには“値段”がつく。“見せ物”として。

かつて“見せ物”だった指導者、衣装係、劇場の支配人は少年たちの未来を拓くべく尽力する。その方法もまたさまざまだ。“見せ物”しての価値をあげるべく芸を伝承する。見映えをよくするために飾り立てる。それはつまるところ、よりよい環境へと少年たちを売り飛ばすということだ。借金を返すため、劇場の懐を潤すため。目的は他にあったはずなのに、やがて彼らは演劇の熱にとりつかれていく。舞台の魔力を目撃する思い。

演技論、女形論の側面もある。ドラァグについても。シャンクは少年が女性を演じる価値をチャームだと信じている。女性の役なのにガニ股で歩いたり、端々に男の子らしさがはみ出してしまうところを観客はかわいらしいと思う、観客はそれを求めているのだと。一方ハマートンは完璧に女性を演じるという新しい表現に挑戦する。ふたりは衝突するが、そのどちらの表現にも観客は歓喜するのだ。かつての少年俳優たちはもう二度と見られない。しかし先人たちの気配、痕跡を持つ新しい世代の俳優たちがいる。そして新しい可能性を見せてくれる俳優が生まれる。そうしてバトンが渡される。見ることの叶わなかった過去が、未来へと繋がっていく。演劇の真髄だ。

想像力をかたっぱしから刺激する脚本には多くの引用がある。タイトルからも判るようにシェイクスピア作品が主で、ハイライトは『トロイラスとクレシダ』だ。ロンドンの初演は2000年、日本の上演は今回が初めてだそうだが、個人的にはこれが好都合だった。日本で上演の機会が少ない『トロイラスとクレシダ』を、2012年に蜷川幸雄演出、山の手事情社の上演で観たあとだったからだ。作品の面白さが変わることはないが、ロンドン初演後すぐにこの作品を観ていたら、果たして自分はここ迄感じ入っただろうか? 少年俳優たちが経験を積み、多様な生き方を見いだしていくように、自分も蓄積した時間から、先人から学んできた。


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09月10日(土)
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