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by kai
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■『僕のリヴァ・る』
『僕のリヴァ・る』@新国立劇場 小劇場
スタッフクレジットの「票券」欄でよく目にしていた制作会社る・ひまわりが、タイトルに「る」を配したシリーズ作品の上演を始めたのは三年程前から。縁がないと思っていたが(それこそ本公演パンフレットで小林且弥さんが仰っていたように「交わることのない」ものだという印象を持っていた)、この度観劇する機会が巡ってきた。というのも、上演台本・演出が鈴木勝秀だったから。
タイトルと「三本の独立した兄弟の物語で構成されるオムニバス形式」というのは企画段階で決まっていたそうだ。オファーを受けた演出家がとりあげたのは、オリジナル短編「はじめてのおとうと」、三好十郎『炎の人』から構成した「フィンセントとセオ」、アルトゥール・シュニッツラー「盲目のジェロニモとその兄」(『花・死人に口なし』所収)から構成した「盲目の弟とその兄」。プロローグとして「前説」がつく。この前説、かなり親切なもの。事前情報だけでなく舞台上からも出典を明らかにする配慮がなされている。今ならではの過敏にも感じるが、ゲームをはじめるにあたってのルール紹介と考えると納得も出来る。先入観を持たせないことより、作品により早く馴染み、没入出来るようにすることこそ重要、という提示とも言える。鈴木拡樹と山下裕子は軽妙なトーク調で親しみやすい導入を用意してくれた。
さて始まってみればバリバリ鈴木勝秀印。四方を客席で囲む舞台はスズカツさんがホームと称していた青山円形劇場を思い出し懐かしくなる。しかしここは違う劇場、同じわけはない。舞台は対面式の客席を分断する形で中央に。客席二面は舞台と地続き、残り二面はバルコニー席から見下ろす形。この変則的な配置、観る方からするとかなり面白い。確実に死角が出来るからだ。その死角を想像するもどかしさと楽しさは、一度体験するとクセになる。やる方はどうだろう? 自分が意識していない箇所を観客に発見される緊張感は常にあるだろう。余談だが、青山円形劇場で一度でいいから体験したいと思っていた視点があった。スタッフや関係者がいる客席上のフロアは、完全に閉じられた円環を見下ろすことが出来る。役者がつくろうことは出来ない頭頂部を見ることが出来る。それはまた、客席とは違う登場人物の一面を見ることが出来ただろう、と羨ましく思っていたものだった。
閑話休題。舞台と対面式の客席はほぼ地続きだが、境界はある。演者は客席から入退場し、観客とコミュニケーションをとる。しかしその境界――コンテナを思わせるスケルトンをくぐると、演者のモードが変わる(ように見える)。演者に役が降りた、という錯覚に陥る。実際観客をいじり乍ら客席内を歩く役者はとても親しみやすく、愛らしさすら感じる若者そのものだ。しかしコンテナのなかに入った彼らは、自分の才能を信じきれず精神に異常を来していく画家として、あるいは負わされた傷により甘えたい気持ちを罵りでしか表現出来ない弟として生きている。兄弟は肉親であり、タイトルにあるようにリヴァルであり、お互いに損得、負い目、贖罪と言った複雑な感情を抱きつつ、他人に対するそれと同じように処することが出来ない。そのやりきれなさともどかしさがこの舞台にはあった。
照明の妙も活かしたモノトーンの装置(二村周作)と照明(倉本泰史)、ラインの美しい衣装(西原梨恵)、雨とホワイトノイズを思わせる音響(井上正弘)。「フィンセントとセオ」はゴッホとその弟の話だが、そのパートは一転色彩鮮やか。視覚的にいいアクセントになっていた。しかし舞台上にあるイーゼルにキャンバスはない。フィンセントが絵筆から咲かせた原色の世界に、観客は想像を巡らせる。そして音楽。oasisの「Champagne Supernova」、Louis Armstrongの「Hello Brother」の客入れにはじまり、大嶋吾郎によりアレンジ、リレコーディングされたPink Floyd「Wish You Were Here」。スズカツさんの世界だなあと思う。身長差のあるふたりの役者を向き合わせる、あるいは背中合わせのタブローとして見せる。観ると懐かしい気持ちにもなり、同時にほっとリラックス出来る。
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02月19日(金)
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